近所の犬 通りかかると見に来る

 

 

昭和十九年(1944年)1月2日、連合軍は東部ニューギニアのサイドルという地にあるグンビ岬に上陸してきた。この急襲で第十八軍の、そして多くの将兵の運命が変わることになった。良くない方に。

 

今回も石川熊男氏著「中井支隊『歓喜嶺』の敢闘」の続きを読むが、この1月2日で一区切りつける。まだ手記の先が長いし、この日以降、中井支隊も陣地再編、配置換え等、大きな影響を受けることになる。

 

 

屏風山は、著者が陣取る入江村と並んで歓喜嶺の近くにあり、中井支隊の陣地が在る。その名のとおり、屏風が屹立したような岩山で、人をよせつけない急斜面。ここには昭和十八年末、第十一中隊(長、上村弘英中尉)や著者の部下、片岡曹長の一コ分隊が大隊砲一門を守って着陣していた。

 

12月28日、これまで敵軍の主たる標的の入江山だったが、その「陣地を墓場と思い定めて奮闘した下条隊将兵の不退転の決意」によるものか、矛先を変えて屏風山を攻撃してきた。この日の一斉射撃で、五千~六千の砲弾が二時間余で撃ち込まれた。

 

 

著者の陣地からも砲煙の切れ間に、屏風山の「目をそむけたくなるような」凄惨な情景が見える。砲撃が終わり、敵歩兵が前進してきた。著者は満を持していた砲列に一斉射撃を命じた。野砲の大畠隊も同時に砲撃を開始する。

 

それでも豪軍歩兵は、屏風山に橋頭保を築くべく前進を止めない。山上の上村第十一中隊長からは「頼む、撃ってくれ」と矢の催促を受けた。しかし中隊方面を水平に射撃するためには、彼の砲台を掩蔽する形になっている砲前面の樹木を伐採しないとならない。即、敵の餌食となる。「断腸の思いで、射撃中止に決した」。

 

 

 

とはいえ戦闘自体が続いている以上、反撃すべく、今の砲台を移動させる先の転換陣地を探し求めめて、石川小隊長自ら偵察に走った。しかし以前の調査で現陣地が最適と選んだ戦場では、なかなか代替地が見つからない。

 

「まごまごしているうちに、わが砲陣地と思しき位置に敵砲兵の集中射撃のものすごい炸裂音が聞こえてきた」。不吉な予感がして観測所に戻り、金山兵長から次の報告を受けた。有り得べからざる事態が起きていた。

 

 

「某中尉が駆け付けられ、十一中隊がやられているのに石川は何をしているんだ、と叱られました。中隊長殿は砲側に行かれ、俺が指揮をとると言って、数発を射たれた」と報告した。私は砲陣地に急いだ。

 

陣地を覆っていた樹々は倒され、あるいは裂けるなどして、一帯は空に向かって大口を開けていた。倒れた木々の下には鮮血にまみれて戦死した砲手や弾薬手の姿が無残にも横たわっていた。砲はと見ると、敵の直撃弾を砲腔に受け、砲身はバナナの皮を剥いだように裂けていた。

 

 

留守中に部下と虎の子の一門を失った。急ぎ観測所に戻ったところ、「前線の中尉から叱責とも謝罪ともつかぬ連絡を受けた。私は全身の血が逆流するような思いだった」とある。とはいえ、中尉の立場からすれば、第一線の崩壊を懸念するのも当然。

 

それに、仮にその砲撃が成功し、兵も砲も無事だったなら、著者は「友軍の苦戦を見捨てて射撃を中止した卑怯者として断罪されたかもしれない」。自分の不明として、上に報告し、きびしい叱責を受けた。七十五粍の連隊砲と数名の砲兵を失い、詫びる言葉もなかった。

 

 

明けて1月2日、壕の中で病臥中だった香川第二大隊長が意識朦朧となり、担架で後送された(後に復帰します)。矢野格二大尉が後任となる。新大隊長は、著者の入営当時の連隊長で心強かった。

 

しかし同じ1月2日、フェニステル山系を挟んで歓喜嶺の反対側にあるグンビ岬に、敵軍が上陸した。アメリカ陸軍の第32師団。次回からは別の回想録や戦史叢書により、この上陸前後を話題にします。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

根津神社の茅の輪  (2022年7月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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