最近の本ブログは、昭和十八年(1943年)の後半から、翌十九年(1944年)の3月ごろまでを一区切りとして、地域ごとに書き進めています。今回タイトルの「開戦第四年」とは、大東亜戦争の始まりから数えて四年目の昭和十九年のことです。

 

この時期の出来事のうち、最初に北部ソロモンのブーゲンビル島におけるタロキナの戦い、次に南東方面の陸軍航空隊の動向をみました。今回からは東部ニューギニア、フィンシュハーフェンからの撤退以後です。

 

 

先のことをいうと、ニューギニアの次はビスマルク諸島(連合軍の上陸やラバウルの命運)、その次が中部太平洋方面(マーシャルの失陥、トラックやマリアナの空襲)という順序の予定です。この年の4月には、ホーランジアの戦いが本格化し、絶対国防圏も風前の灯。

 

ホーランジアを失うということは、前年9月30日の「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」において、絶対確保すべき要域として挙げられていた地名の一つ、西部ニューギニアに敵が立ち入ったことを示します。なお、ここでは「ニューギニア島における当時の東西の境と、現在の国境が同一である」との前提で書き進めています。

 

 

ホーランジア(現在のジャヤプラ)は、当時の西部ニューギニア、今のインドネシア国領土です。東部ニューギアは、現在PNG(パプアニューギニア国)。もっとも、これは地上戦での話にすぎず、すでに空中と海上・海中は、連合軍が往来しています。

 

陸軍の戦史叢書(58)の第四章「連合軍のグンビ岬上陸をめぐる第十八軍諸部隊の作戦」が当面のテーマです。今回は先ず大まかな位置関係を確かめます。まずは現代の地名ですが、グーグル・マップを眺めます。

 

 

 

左上(北西側)に、この時点で第十八軍の司令部が在るマダンが見えます。右下にフォン半島、その先端にフィンシュハーフェン、下側の付け根にラエ。ラエからマダンに向かってマーカス河が流れています。

 

 

このマーカス河の流域における中井支隊の戦闘については後々の回で題材にします。この河と海の間にある山岳地帯は、戦史にフェニステル山系という名で出てきます。フェニステル(この地図に、"Finisterre"とある)は、スペイン語で「地の果て」。

 

なおこのフェニステル山系の南麓には、ラエ方面に南向するこのマーカス河のほかに、反対側の北西に向かって流れるラム河があり、この両河川沿いの低地に、第十八軍はラエからマダンへの自動車道を啓開しようとしていました。

 

 

マウント・サラワケットも、フェニステル山系の一峰です。サラワケット山はラエの北にあり、これを越えた第五十一師団と、フィンシュから後退してきた第二十師団が、地図にはありませんが、フォン半島北岸のキアリ、シオ近辺に集結中です。

 

第十八軍としては、このシオを失うと、ダンピール海峡の輸送が全くできなくなるでろうことから、この地をひたすら確保する方針でした。しかし連合軍もしたたかで、このシオ附近とマダンの中間点にあるグンピ岬に上陸してきます。

 

 

グンピ岬は、上図にある海岸沿いのサイドロ(日本軍の呼称はサイドル)という地にあります。戦史によって、グンピ岬と書いてあったり、サイドルと書いてあったりです。私は戦地としては、同義とみなしています。

 

これは後の話題となるニューブリテン島における、ツルブとグロスター岬、アラウェとマーカス岬も、似たような関係です。詳細は追って記します。さて、グンピ岬・サイドルへの敵上陸はマダンとシオを、ど真ん中で分断しました。一大事です。

 

 

シジュウカラの水浴び 当日の東京は[「熱中症警戒アラート」下達中

 

 

昭和十九年(1944年)の新春、第十八軍はフィンシュから、第二十師団を追送してくる豪州軍をシオで食い止める不動の決心を固めています。第十八軍司令官の安達二十三中将の作戦指導構想は、新年早々の「猛参電第九七二号」に示されています。

 

その一部を仮名遣いを改めつつ、最初と最後の一文を引用します。文面からして年始の決意表明の感があります。しかし、この翌日、連合軍がグンピ岬に上陸してくるとは。次回はその話題の前に、年初時点の第十八軍の状況です。

 

 

軍はダンピール海峡西岸最後の拠点として、シオ付近を確保する。

(中略)

 

開戦第四年の新春を迎え、軍は逐次困難とならんとする戦局に処し、難局を天与の栄責と考え、益々勇戦確乎、不動の決意を以て任務完遂を期しあり。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

コシアキトンボの雌  (2022年6月28日撮影)