ノコギリクワガタ 

 

 

余談から始めます。手元に古い新聞紙の一部(第一面の上半分)のオフィス・コピーがあります。以下、新仮名遣いに改めて引用します。新聞は「読売報知」の昭和十八年二月十日(水曜日)のおそらく朝刊で、主な記事は二つ。

 

一面トップは「ニューギニア ソロモン諸島 新作戦基礎確立」という見出し。続くリード(前文)には、歴史に残る「大本英発表(二月九日十九時)」が載っており、すなわちニューギニヤ島ブナおよびソロモン群島ガダルカナル島からの転進。

 

 

記事本文は結果論と装飾の芸術的見本のようなもので、「悪逆鬼畜の米英を相手に勇戦奮闘、数ケ師団の敵陸上部隊と大艦隊をここに釘付けにして、後方の友軍主力部隊が戦略的要点を確保するため一歩も引かず完全に後方部隊に対して垣根の役目を果たしたのであった」。

 

本当のところは、精鋭の主力をすり潰したのであった。また、日付をみると2月9日発表とは、撤退作戦終了直後です。この日までブナを伏せ、成功したのに安堵して発表したものか。しかし、それこそ大本営発表なのだから、仮に失敗しても同じですか。

 

 

もう一つの記事が、最近のテーマに少し関わる。見出しは「陸鷲大陸で活躍」。私の近辺で飛ぶ姿が航空機によく似ているのは、トンボとユリカモメなのだが、やや迫力に欠けるのか、わが航空部隊は海も陸も鷲です。

 

2月8日の「大詔奉戴日」(そういう催しがあったのか)に、「我が陸鷲〇〇部隊の精鋭」が、戦爆連合で西安の「北支策動拠点を覆滅」し、全員無事帰還。遣唐使がお世話になった唐の都の長安。急降下爆撃の攻撃対象は飛行場であったと報じています。

 

 

ほかにも桂林、安康、揚子江輸送船団、印度国境西北などを爆砕したと意気軒高である。ともあれ、こうしてユーラシア大陸に展開していた各基地から引き抜いた航空部隊の集合体が、ニューギニアの第四航空軍でした。

 

今後しばらくの間、南洋における陸鷲の概要をみるべく、初めて読む陸軍の戦史叢書を参照します。第97巻「陸軍航空作戦基盤の建設運用」のうち、第三章「南太平洋作戦に伴う航空作戦基盤(昭和十八年中期まで)」。これ以前は第一段作戦の南方だけでした。

 

飛ぶ鷲の写真はないのでトンビ

 

 

本章は「連合軍のガダルカナル反攻開始後、約一か年間における、陸軍航空作戦基盤の状況推移を記述するものである」と冒頭にあります。昭和十七年(1942年)の9月頃まで、南海支隊がオーエンスタンレーに向かっていても、陸軍には南洋方面の航空作戦がありません。

 

根本的な前提の誤りは、日本が、同方面における連合軍の反攻は、まだまだ先(十八年以降)とみなしていたという点には、何度も触れました。この「当初のわが全般情勢判断とも関連し、逐次戦闘加入を繰り返し、思いもかけぬ重大作戦に発展した」。その次の箇所を転載します。文意を変えない範囲で補記しています。

 

 

そこでは制空権の価値が決定的となり、航空基地の争奪をめぐる陸海空の統合作戦様相が出現し、航空作戦不振の日本は、逐次戦線を後退するほかなかった。そしてそれにはわが軍の航空作戦基盤の不備が大きく影響していた。本作戦を制空権の推移状況によって段階区分すれば次のようである。

 

一  彼我航空勢力の逐次転換 (十七年九月ごろまで)

二  ガ島・ブナ方面制空権喪失 (同十月ごろ以降)

三  ムンダ・サラモア方面制空権喪失 (十八年二月ごろ以降)

四  ボーゲンビル・ウェワク方面制空権喪失 (十八年八月ごろ以降)

 

 

以上はもちろん、海軍も含めた状況です。「一」の逐次転換が、「二」の喪失の始まりに移行した時期は、9月の陸軍第二次総攻撃および海軍の南太平洋海戦の結果、基地航空および敵機動部隊ともに、敵を駆逐できなかった。10月の服部卓四郎課長の出張報告には、「制空権が完全に敵手にあり」と危機感がにじんでいる。

 

「二」の期間は、ガダルカナル撤収まで。「三」の期間は、中部ソロモンの喪失、ムンダ・サラモアからの撤退。「四」の期間は、北部ソロモン(ブーゲンビル島)やウェワク地区に敵が進出、「日本軍はダンピール海峡付近に戦線を後退した」。

 

 

いま本ブログは上掲「四」の期間をさまよっています。とはいえ初めて読む資料ですので、復習や新情報の確認も含め、過去記事の時期・中身と重なりますが、上記「一」の箇所も概要を確かめて参ります。まずは、事の発端。

 

ガダルカナルの飛行場の設営および争奪戦を、南太平洋における陸軍航空部隊の進出と苦戦の始まりとして書き出しています。まずは上記の「敵の反攻は十八年以降」という十七年三月の第二段作戦開始時点における大本営の見通しの甘さ。

 

 

これがツラギ・ガダルカナル方面の敵上陸に対する軽視(敵による威力偵察や牽制攪乱とみなしたなど)を生みました。ガダルカナル飛行場については、まず陸軍の場合、その「拙速主義」により度重なる奪回作戦に失敗する。

 

海軍については、「ガ島への不用意な飛行場設営」、それに「中部ソロモンの飛行場設定遅延」を挙げています。前者については未だに私も、いつどこで誰が言い出し、だれが正式決定したのか知りません。後者については宇垣纒「戦藻録」に詳しい。

 

 

南洋方面では、「航空基地の建設競争が、全般戦勢を左右する傾向を示した」とあります。日本軍は特に、「防備薄弱が重大化」したため、各地で飛行場建設を急ぎますが、敵に邪魔されたり横取りされたり、その合間に知らぬうちに敵が造っている。

 

この事態を受けて、大本営では海軍部が陸軍部に対し、昭和十七年(1942年8月下旬)に、「陸軍航空部隊の南東方面派遣を要求し始めた」。これを陸軍は長い間、ほとんど受け入れなかったのですが、長くなりますので以下次号です。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

信州の神社の神様は、柱に深い縁がある。

写真は伊那谷の辰野町三輪神社。

(2022年6月16日撮影)

 

 

 

 

 

【追加】 上野公園のオオワシ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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