ウメエダシャク

 

 

前回の続きです。再攻勢が失敗に終わった昭和十九年(1944年)3月24日午後遅く、ブーゲンビル島の第十七軍は、百武軍司令官が作戦中止を決断したが、下田後方主任参謀の意見具申により、ラバウルの第八方面軍に伺いを立てることになった。

 

この第十七軍が出した「意見具申電の具体的資料は見当たらない」と戦史叢書(58)は補記しているが、翌25日午後にラバウルから返信が来ているし、「丸」別冊の手記にある下田不二男氏の手記「ガ島撤退後の百武第十七軍」にもこの件が載っている。

 

 

爾後、二週間余におよぶ第六師団第一線部隊の攻撃戦闘は、まさに熊本精鋭部隊の名に恥じない敢闘ぶりであった。とくに歩兵第四十五連隊の第一線中隊の一部は、ついに飛行場突入に成功するにいたり、司令部を喜ばせた。だが、無念にも敵戦車が出現して蹂躙され、攻撃は頓挫するにいたった。

 

すでに二週間がすぎたが、攻撃は進捗せず、敵火による損害が続出した。糧食弾薬も尽きはて、師団からも、これ以上の攻撃続行は困難である旨の報告があった。軍司令部も、これ以上、無為に損耗をくり返すより、ここは戦力の再起をはかるため主力を撤退すべきであるとし、このむね方面軍に了解を求めた。

 

 

理屈を申し述べます。すでに、百武軍司令官は攻撃中止を決心しており、下田参謀が意見を出さなければ、方面軍には事後報告になっていたはずだと読める。師団の窮状を考えれば、そうすべきだとも思う。そして失敗の責任は軍司令官が一身に負う。

 

下田参謀は、それを避けたかったのかもしれない。結果的には敵が追尾してきて本格的な再起も何もできなかったのだが、それは後日の話。ここでは陸軍内の裁量権のことを考えたいのだが、軍司令官は単独で軍の作戦を中止できないのだろうか。

 

 

開始の命令が方面軍からあったのだから、中止の命令も方面軍から出る必要があるという下田参謀の論理は妥当です。だが、いかなる緊急時でも電報のやり取りが必要なのか。海軍の場合、南雲中将は山本大将の正式承認を待たず、引き返したはすだが。

 

我一人、悩んで答えの出るものではないが、米軍の砲撃が夜間にも行われており、日が昇れば戦車が来る。食糧がない。待ち時間が長いほど人が多く死ぬ。第十七軍はガダルカナルで通信機が使用不能となり、聖断から撤退まで二か月もかかった。

 

野生の鯉

 

 

幸い、第八方面軍からの返信は、翌3月25日の午後に受電した(剛方作命甲号七四二号)。こちらの電文は、戦史叢書にその「要旨」が載っている。要旨ですら長くて、また、どう頑張ればこういう文章が書けるのか不思議なので、記録に残すに値する。原文はカタカナ。適宜句読点を入れます。

 

 

第十七軍司令官は自今左記要綱に準拠しタロキナ方面の敵撃滅の任務を遂行すべし。

 

一  第十七軍の目的とする所は、あくまで堅忍不抜、敵に打撃を与え、その戦力の損耗を策するに在り。

 

二  前項目達成のため、軍主力の戦力を培養すべき地域、その攻撃時期は、第十七軍司令官の所信に一任す。

 

三  今後における補給は殆ど途絶すべきを以て、極力現地の自活施策を強化すべし。

 

四  如何なる場合においても、座して餓死を待つことなく、万策を尽くして戦闘を継続し、何て皇軍の名誉を発揚し、将兵をして光栄ある死処を得しむるを信念とするを要す。

 

 

なお、四項の「何て」は意味も読みも不明。「以て」のことか。さて、例えば英語の文章も、学術論文も、最初に結論を提示するのが一般的との理解であるが、たいていの日本人の文章は、最後まで読まないと油断できない。

 

本作品の場合、序文と一項を読む限り、戦闘継続命令である。だがこれは、続きを読むと第二次タロキナ作戦のことではなくて、ブーゲンビル島の戦い全てを指している。そんなことは、軍が同島に転進した際に、伝えてあるはずのものだ。

 

 

二項も負けていない。軍の意見具申の主旨は、「攻撃を中止するが宜しいか」のはずだが、返信によると、一項達成のための戦力培養の場所と時期は、軍司令官にお任せする、とある。これは暗号か。流行り言葉でいえば、自己責任か。

 

三項と四項は、この速達に書く必要はなく、あとで伝えれば十分であるし、むしろ現時点で、「補給できない」、「餓死するな」、「死処を求めよ」とは、作戦失敗直後の軍に対し、酷烈な放言であろう。

 

 

これはおそらく、転電先(CC)に入っているはずの大本営陸軍部の顔色を窺ってるものだろうと思う。こうも厳しく突っぱねたように言わないと、それぞれの面目が立たないのであろうか。ここでは急ぎ、「本作戦の中止を命ずる」で必要十分である。

 

さすがに、これだけでは冷たいと思ったのか、方面軍からは、「大本営より、上奏の結果、第十七軍が成功しなかったことは残念だったが、軍はよくやったと言われた」との通報があったと、神田師団長の回想が戦史叢書にある。タロキナは次回が最後。

 

 

(つづく)

 

 

 

子亀のころは可愛いのだが...。  (2022年6月4日撮影)