前回の続き。歩兵第十三連隊については戦史叢書(58)に頼ります。いま手元に当時の関係者の手記がなく、連隊史は殆どが万円単位で手が出ない。さて出城の六〇〇高地を守る米軍は約80名。南北にある円丘のうち、南側だけを拠点としている、

 

南円丘には鉄条網を巡らせたトーチカと掩体壕、そして最前線だけあって観測所がある。丘には特徴的な高さ50メートルもある巨木が一本、立っており、米軍は”OP Tree”と名付けていた。オブザベーション・ポイントの木かな。

 

 

昭和十九年(1944年)3月9日の夜、歩十三の尖兵は、疲労と栄養失調をおしのけるように躍動した。まず高岡工兵隊が、鉄条網の隠蔽破壊に成功した。有刺鉄線は、日露戦争の露軍が高圧電流を流していた記録を読んだ覚えがある。電力事情の違いか。

 

続いて歩兵の第九中隊は、翌朝未明の3月10日午前4時過ぎ、薄明りの中を突撃し、米軍資料によれば、「アメリカ軍陣地の大部を蹂躙し、観測所の木を占領し、アメリカ軍基地の生存者を北方の円丘に駆逐した」。

 

 

木の占領というのは初めて聞く。守備隊連隊長のロング大佐は、日本軍が「最も困難な方向から攻撃を行い、完全に奇襲した」と記録している由。この高地を守備するのは、ガダルカナルの戦いで登場したニューカレドニア編成の米陸軍アメリカル師団。

 

同師団長のホッジ少将は、日本軍の強力な攻撃をうけたとき、小城を捨て撤退させる心づもりであったらしい。されど上官の軍団長グリスウォルド少将から「いかなる犠牲を払ってでも保持せよ」という命令をもらって驚いた。

 

 

アメリカル師団は、連隊予備から二個師団を抽出して奪回攻撃をすることになった。午前9時、第一回攻撃。日本軍の射撃に前進を阻まれた。火炎放射器を増強し、第二回攻撃を12時過ぎに開始した。

 

南円丘を占領した日本軍は当初、次に北円丘の敵を攻めて更に占領地を広げようとしていたものの、米軍の攻撃を受けて方針を切り替え、米軍に相対した。両軍とも戦死傷者が続出し、米側は戦力が半減。

 

 

 

 

日本側は報告によると三分の一まで減り、新海歩兵中隊長が戦死、工兵中隊長も電話で戦況報告を終えた途端に被弾し、受話器を持ったまま斃れた。そして、翌3月11日の攻防は戦史叢書によると、「日米両軍の現存する記録が大きく食い違っている」。

 

食い違い方が妙なもので、日本側は米軍の「執拗なる逆襲をことごとく撃退す」となっており、また、その生存者の回想も同様である。他方アメリカ側の記録は詳細で、要約すれば、日本軍の三方向からの攻撃で包囲されかけ、苦境に陥った。

 

 

この日の米軍は主抵抗線から兵力を抜き、増派している。火炎放射器も持ち出した。そうやって北円丘を占領し、南の日本軍とにらみ合いのまま夜を越したらしい。この夜の日本軍は、明らかに強化されていたとも記録されている。

 

戦史叢書は、ずっと詳しい米軍資料のほうが実態に近いと考えており、大本営の「戦訓特報」の短い記事しかない日本軍について、「おしむらくは、連隊、師団の段階での対策がなかったことである」と評し、その連絡のまずさを指摘している。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

ホタルブクロ 開花第一号  (2022年5月25日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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