舎人公園の水鳥バン 東京都足立区

 

 

本ブログは昭和十八年(1943年)11月に起きたギルバート諸島(マキン、タラワ)の戦いの前年にも、同地にて戦闘があった件について、その経緯につき、まず「戦藻録」、続いて戦史叢書を参照しております。

 

今回は、「戦史叢書第062巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降」が参考書です。その第三篇第四章は、「米海兵隊の潜水艦によるマキン島への奇襲」。これが、同年8月7日のツラギ、ガダルカナルへの上陸作戦と同時期の、海兵隊による8月17日の軍事行動です。

 

 

その詳細に入る前に、不思議に思ったのは章題にはマキンだけで、翌年には激戦場になったタラワが含まれていないようです。そもそも太平洋戦争が始まった直後、それまで日本領の南洋群島の外にあったギルバート諸島が、いつ戦争に巻き込まれたのか確認しておりません。

 

そこで、いきなりまた過去に戻り、前回の海軍の戦史叢書(38)において、開戦直後の同地における日本軍の行動について、概要を確かめます。結論の要点だけ先に述べれば、日本軍は両島に上陸したものの、基地はマキンにだけ置いた。

 

 

すでに、以下のことは話題にしました。すなわち、ギルバート諸島は開戦当時「ハウランド方面」に含まれていた。戦前から白人は居住しているが、敵軍隊は不在であることが分かっていた。占領計画の担当は、第四艦隊の第十九戦隊。旗艦は敷設艦「沖島」。

 

以下、補足します。第十九戦隊司令官の志麻清秀少将は、開戦前の昭和十六年(1941年)11月、ギルバート諸島占領の指揮官に選ばれた。この作戦は、開戦直前に連合艦隊が岩国で主催した、名高い作戦会議で正式に決まりました。第四艦隊ももちろん参席しております。

 

 

真珠湾攻撃の前後、12月4日にはタラワ島の占領要領が、また、12月8日にはマキン島の占領要領が、それぞれ連合艦隊からマーシャル諸島のヤルート環礁あて発令されました。真珠湾攻撃と時間・場所ともに連動しています。ただし、攻撃隊はマーシャルから出ている。

 

占領後の目標はマキンに「急速航空前進基地」を設営すること。その作戦目標は、爾後、ハウランド方面における航空隊の拠点基地とし、かつ、同方面における敵潜水艦への監視と攻撃。マーシャル守備の前衛です。

 

 

計画では占領後、新規に水上機航空基地を設営し、また、地上諸施設は極力既存のもので代用し、通信機など敵の施設・設備があれば破壊する。この急ぎぶりは、真珠湾のあとで敵が急追、反撃してくることを前提としています。

 

戦史叢書によれば、この海上部隊の計画と同時に、潜水部隊および航空部隊の作戦計画も定められたはずで、ただし、いずれも資料がなく詳細不明。なお、実際に発動した航空隊は、千歳と横浜の所属です。

 

 

舎人公園のカワウの飛翔

 

 

経緯を追います。海上部隊は旗艦「沖島」ほか、11月29日トラック環礁から出航、駆逐艦「夕凪、「朝凪」に先導されて、12月3日、マーシャルのヤルート環礁に到着。さっそく、航空隊や上陸する警備隊との打ち合わせ、訓練、研究を行う。12月5日、出撃準備完了。

 

連合艦隊の主力が、北太平洋を一路、パール・ハーバーに向かっている時期です。規模は小さいが中部太平洋でも、地道に熱心に働いていたわけです。その連合艦隊主力から、12月8日午前、ハワイ奇襲の成功が報じられ、さらに南洋艦隊司令部から出撃命令が出た。

 

 

このとき、すでに基地用品などを運ぶ徴用船「かろりん丸」と漁船三隻は、前日7日午後にマーシャルのルオット島から先発出動している。駆逐艦二隻は、攻撃命令を受けて8日11時30分に出撃。先発隊と合流後、途中で分派した。

 

マキンには「沖島」の一番隊、タラワには「夕凪」、「朝凪」の二番隊が向かっている。ちなみに、ここで「マキン」と表記していますが、正確にはマキン環礁のブタリタリ島が主目的地です。タラワも同様ですが、戦史叢書にマキンの要図のみ載っていますので転載いたします。

 

 

 

マキンもタラワも、12月10日未明に上陸作戦を開始し、戦闘も無く、成功した。この先が少し違う。マキンではウィリアム行政長官(英国人のはず)を逮捕、連行。同島に銃隊、航空隊、通信隊が残り、同日中に水上機基地を設営し、「沖島」を残して他はルオットに帰還した。

 

タラワは、占領後に全員がマキンに引き上げている。すなわち、暗号表や軍用資材を徴収したのち、逮捕した白人は釈放している。掃討のみ。第1311回に記した「日本軍が来た日」は、このときのことだろう。もちろん戦史叢書には、処刑の記録などは残されていない。事実関係不明。

 

 

他にも両環礁の小島の幾つかを占領したが、全島制覇の計画は中止となった。理由は、同時並行で進んでいたグアム島作戦は成功したものの、ウェーク島攻略に失敗したため、上記の両駆逐艦などは、ウェーク再攻撃部隊に編入された。

 

同じ理由で航空作戦も中断したものの、追って横浜航空隊の航空挺が哨戒のため進出し、陸上の警備隊に合流した。これら「マキン守備隊」が、翌年8月に米軍の反抗を受け、宇垣参謀長の心配どおりの結果となって、ほぼ全滅する。その現場については以下次号です。

 

 

(つづく)

 

 

 

上野五條天神の紅梅  (2022年1月31日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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