水元公園のキンクロハジロ等の群れ

 

 

前回言及した海軍の戦史叢書(38)において、ハウランド方面という言葉が出てきました。太平洋戦争が始まる前の箇所に登場するのですが、具体的にどこからどこまでなのか、戦史叢書も分からない様子。ともあれ、マキン・タラワを含むギルバート諸島は、この方面にあります。

 

戦史叢書には、先ず開戦の大命「大海指第一号」において、ハウランド方面の作戦方針が具体的に示されていないと書いている。推定として、連合艦隊が、第四艦隊に対して、ハウランド方面の作戦指導をしたらしいとある。

 

 

また、昭和十六年(1941年)9月に海軍大学校で行われた連合艦隊の図上演習においても、ギルバート諸島の占領構想は含まれていない。同年11月の岩国における連合艦隊との打ち合わせにて、第四艦隊司令部はギルバート諸島の占領方針を知った。発案者は不明。

 

位置関係を確認しますと、日本領になっている南洋群島の東端がマーシャル群島。南洋群島の外側で、マーシャルの東南にあるのがギルバート諸島で、今のマーシャル国の首都マジュロのすぐ南、ほぼ赤道直下にタラワがある。

 

 

この方面の担当は、第四艦隊に所属する第十九艦隊。戦史叢書には、選ばれた理由として、開戦当初における任務が決まっていなかったとある。旗艦は敷設艦「沖島」。「おきのしま」と読み、玄界灘の沖ノ島に由来する。バルチック艦隊がこの島の前を突っ切っていった。

 

この第十九戦隊が、「ハウランド方面攻撃支援隊」として、航空隊と協力し潜水艦隊を支援しつつ、ギルバート諸島の偵察及び占領を命じられたのは、11月21日付「機密南東部隊命令作第一号」(原本無し)。「支援隊」といっても、まだ支援相手の攻略部隊ができていない。

 

 

ツグミ

 

 

この当時の第十九艦隊の調査結果によると、ギルバート諸島には敵無線基地があり、若干の白人が居住しているが、軍隊は常駐していない。この当時、ギルバート諸島(今のキリバス国)およびエリス諸島(今のツバル国)は、イギリス領です。「ギルバート・エリス王領植民地」。

 

大英帝国は、このあたりの島々をドイツ帝国と山分けした際、理由は知りませんが、英国人マーシャルが発見したマーシャル諸島への関心は薄かったようで、ドイツに渡しています。その後、日本領になった。ギルバート・エリスは、ずっと英国領のままです。

 

 

マキンやタラワの主要産業は、コプラ(椰子の実の脂肪分を乾燥させたもの)や、「良質なカンカン帽」。何だ、これは。カンカン帽は本来、麦わらが材料だが、椰子の葉っぱで作るのだろうか。マキンには戦前、前回既出の南洋興発貿易会社のギルバート支店があったそうです。

 

ハウランド島は情報が少ないが、当初は英豪連絡航空路で、アメリカ領になって以降は、米海軍航空基地が置かれていました。タラワは珊瑚礁に囲まれた天然の良港で、ギルバート・エリス王領植民地の行政府が置かれていた。

 

 

占領時の様子は次回に記しますが、とりあえず今回は、その結果のみ高木惣吉著「太平洋海戦史」(岩波新書)から転記します。「第三章 南洋群島の戦闘」の冒頭に置かれていますが、占領時の箇所は次の三行のみ。その続きは延々と、「中部太平洋諸島の苦戦」です。

 

マーシャル群島は開戦直前から、潜水艦艦隊の根拠地となり守備陸戦隊が進出していた。また、その南に連なるギルバート諸島は、十二月十日、わが陸戦隊がマキン、タラワ両島に上陸して東方第一線基地として固められたのである。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

近所の谷中御陰殿坂にて、ジョウビタキの雄  (2022年1月3日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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