ダイサギ これだけ近づいても逃げない 

 

 

海軍の戦史叢書(38)は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約と、第二次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約との類似性に言及しています。前者は勝者とドイツとの、後者は勝者と日本との講和条約であり、敗者は海外の植民地を失い、多額の賠償金が課せられました。

 

また、前者が国際連盟の設立、後者が国際連合の設立の、直接の契機となりました。違う点もあります。前者においてドイツは厳しい「軍備制限」も受けた。換言すれば、後者において日本が軍部を解体されたのに対し、ドイツでは残りました。

 

 

ベルサイユ条約で定められたのは、ドイツは「海外属地」における権利・権限を放棄する(議定書の第119条)というもので、でもこの時に、南洋群島が自動的に日本の海外属地に決まったのではない。他のドイツ植民地も、しばらく宙に浮いたような状態のままでした。

 

この間は大戦中と同様、南洋群島については「実質的には日本の施政下にあった」。ようやく二年後の1920年、国際連盟の決定で、日本の植民地に決まった。難しい言葉を使うと、国際連盟がその地の統治を、日本に委任する(委任統治)。

 

 

おそらく他の軍事大国も、いま居座っている植民地は手放すつもりがなく、お互い認め合った結果ではないかと思いますが、これはあくまで推測です。さて、日本はこの大正九年(1920年)の正式決定の6年前には、「臨時南洋群島防備条例」を発布しています。

 

戦時ですし、軍事的に占領しているだけですから、内政ではなくて「防備」です。全群島を七軍管区に分けて夫々に司令官以下、守備隊(臨時南洋群島防備隊)を置きました。大戦中は守備隊長が、内政の長も兼務しておりました。当時の防備隊の本部はトラック環礁にあった由。

 

 

1920年の国際連合による正式決定にともない、日本は受任国として統治を行うため現地体制を変更し、軍部から内政部門を切り離す政治改革を始めます。このころ国内ではスペイン風邪のパンデミックで大騒ぎのはずなのに、こういうことには熱心なあたり、歴史は繰り返す。

 

大正十年(1922年)、委任統治組織の本部をトラックからパラオ諸島コロール島に移転させ、翌十一年(1923年)3月に、新たに「南洋庁」を設立し、「地方組織としてサイパン・パラオ・ヤップ・トラック・ポナペ・ヤルートの6支庁を置いた」とアジ歴にあります。関東大震災の年。

 

 

 

 

 

根拠もない思い込みですが、私は日露戦で世話になった日英同盟の恩返しのため、第一次世界大戦に形ばかり参戦したのだろうと思っていました。日英同盟は安保条約と異なり、同盟国が複数国と戦闘状態に入れりの場合、参戦の義務がありますから、「形ばかり」ではない。

 

加えて上記の活躍ぶりを見ていると、なかなか積極的だなと感じます。南洋庁は法令上は、シビリアンの組織ですし、軍隊も引き揚げましたが、しばらくの間、南洋庁長官は在外公館と同様、武官が駐在しており、彼らは「横須賀鎮守府参謀兼軍需部員」という肩書だった。

 

 

戦史叢書によると、この時点で南洋群島にあった飛行場は、「全部海軍もの」であり、また、南洋在勤武官は南洋庁の「影の実権者であった」と言い切っている。通信所も組織図上は南洋庁に移管されたが、所長は海軍軍人のままでした。

 

まだある。次は群島内の輸送手段で、広い海域ですから水上機による交通網を広げ、飛行機は海軍の所属、搭乗員は海軍軍人、訓練も横鎮で行った。このあとを追って、民間の航空会社も進出してくる。

 

 

このころ、後の宿敵となるアメリカ合衆国は、19世紀からのモンロー主義を唱え続けています。これは永世中立国のようなイメージで学校教育に教わりましたが、実際は欧州との縄張り争いが激化しないための手打ちのごときものです。

 

だから、欧州との反対側の太平洋では、南北戦争での自傷が癒えたころから、やりたい放題になってくる。ハワイの歴史に詳しい方がよくご存じだと思います。王朝を潰し、併呑し、太平洋艦隊を置いた。東郷さんがハワイの助太刀に行ったのもこのころ。太平の大洋を先に搔き乱したのは米国であろうと思う。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

日没少し前  (2022年1月15日撮影)