最初に買った戦史叢書は、「中部太平洋陸軍作戦<1> マリアナ玉砕まで」(006)でした。それまで何も知らなかった伯父の最後の戦争について、基礎知識を得るためです。この戦史叢書に約3年ぶりに戻ってきました。

 

もっとも当時はマリアナ諸島の戦いの部分(タイトル通りで、中部太平洋方面の終盤戦)しか読んでおりません。今回はその前の箇所から順次、進めます。方面という用語は、その時々で戦争を行っている場所、起きそうな場所の総称でしょう。漠然としています。

 

 

例えば、初期の太平洋戦争で主役だった海軍の戦史叢書を見ると、中部太平洋作戦の中にラバウル(第一段作戦)、ニューギニアやガダルカナル(第二段作戦)も項目に含まれています。したがって厳密な定義にはこだわりません。

 

本ブログでは、便宜的に赤道で方面を区切っており、南東が南太平洋、中部が北太平洋です。中部太平洋方面のうち、海軍の戦史叢書(38)にある「中部太平洋概図」を一部切り取ったのが、上図です。左上が日本、右上がミッドウェー、中央下が南東方面です。

 

 

赤道の北に、四隅を切り落としたような横長の長方形に破線で囲まれた区域が、「南洋群島」です。最近の地理では、殆ど呼称が「諸島」で統一されており、私がすぐに思い浮かぶ群島は歯舞だけ。さて、南洋群島には、四つの主要な諸島が記載されています。

 

北部に小笠原からの並びで、マリアナ諸島。南部に東からマーシャル諸島、トラックのあるカロリン諸島、左端がパラオ諸島です。メルカトル系の地図は、赤道に近いほど相対的に面積が狭く表示されることを考慮すると、これは相当に広大な海域です。

 

 

 

ハクセキレイ

 

 

これをまとめて南洋群島と大日本帝国が呼んでいたのは、第一次世界大戦のあとで敗戦国ドイツから分捕ったもの、という明快な経緯と範囲があるからです。ドイツ第二帝国とは差しでの対戦はしていないという理解です。日英同盟のお付き合いをしたので、おこぼれを頂戴した。

 

 

ちゃっかり上手くやったと思ったのかもしれませんが、そのツケをどう払うことになったか、これから観ていくことになります。南東方面とは決定先な違いがある。先の大戦前からの植民地ですので、日本人の民間人がおおぜい移住しています。戦中戦後、大変な目に遭う。

 

また、日本の領地ですから、南洋庁という行政機関があり、主要地に支所がありました。海を渡ったのは移民だけではなく、会社や店舗も進出します。私は古い人間ですから、委任統治領などという気取った言い方はしません。軍事と経済のため、民を植え付ける植民地。

 

 

南洋群島の右下の範囲外に、マキンとタラワを含むギルバート諸島があります。つまり、日本軍が開戦後に進出した地。本欄では、中部太平洋方面の戦史は、前史に少し触れたあとで、ギルバート諸島の戦いから始めます。

 

ちなみに現在の国名では、ギルバート諸島周辺はキリバス(ギルバートがなまったもの)、トラックはミクロネシアのチュークになり、マリアナは北マリアナ連邦というアメリカの自治区域(外交と軍事は米国が権限を持つ)、パラオはパラオです。

 

 

南洋群島の外側にあるギルバートや南東方面(ソロモン、東ニューギニア)が、昭和十八年(1943年)9月の絶対国防圏から外されたのは、「攻め込まれたので、手放した」で話が通るとしても、もはや外地マーシャルを確保することもできなっています。

 

これらの島々の中で、行ったことがあるのはタラワ、トラック、マリアナのグアム、サイパン、ロタ、テニアンです。しかし出張か観光ばかりで、遺跡を巡り、きちんと慰霊をしてきたのはテニアンだけ。まだまだ、やることがたくさんあります。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

寛永寺ネコ、なかなかワイルド  (2022年1月12日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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