ルリビタキ

 

 

本ブログは、昭和十八年(1943年)の11月までにおける南東方面(ソロモン、ニューギニア)の現況をみたあとで、同じ月に始まった中部太平洋方面(まず、マキンとタラワ)に移ります。その後は、行ったり来たりになると思います。

 

南東方面は、正月の新型コロナ騒動および私の風邪(のはず)があって、読書も下書きもできず、中部太平洋は未着手です。仕事も若干あり、少しブランクが空いてしまうかもしません。今回は南東方面の当面の区切り。11月のフィンシュハーフェン方面における第二期作戦です。

 

 

10月31日にサッテルベルク高地に到着した安達第十八軍司令官は、作戦の方針を変更する命令を出しました。その日付は陸軍の戦史叢書(58)に明記されていないが、第二期作戦を11月1日からとしているので、到着翌日には下達されたか。

 

軍司令官は、すでに進出前から新作戦を案出し、命令書も携えてきたというから早い。作戦変更とは、敵軍がニューギニアの入り組んだ地勢を持て余したか、陣地が分散配置気味になっているのを利用し、集結する前に、これまでの主力陣への正面攻撃を止め、各個撃破する。

 

 

この時期の第十八軍の使命は、参謀本部・第八方面軍ともに、フィンシュハーフェンの要地を「奪回確保」せよという、厳しい要求であった。主力第二十師団は、これからも数か月にわたり、弾も食も薬もなく、フィンシュで悪戦苦闘することになる。

 

後述するが、豪軍の資料にまで、日本軍の食料難の記録がある。それに、海軍の支援も、全くないわけではなかったのだが(フィンシュには海軍警備隊もいます)、日常的には海では大発、空では陸軍機を用いている。主目標は、敵の飛行場および港湾の使用を掣肘すること。

 

 

海に大発で出てゆく。これを陸なら火力で狙い撃ちしてくる敵基地を個別に潰す。補給は潜水艦輸送と空輸。そしてこの間、サ高地およびその東部は、師団の根拠地として「絶対確保」する。回想によると、サ高地からはフィンシュの海が見える。二〇三高地のようだった。

 

安達軍司令官は、この基本方針を示したうえで、実戦の具体策については各部隊長に裁量を与え、11月3日にはサ高地を離れ、13日にマダンに戻った。この移動中に、ラバウルの第八方面軍、今村均司令官より、11月9日に「必死敢闘」の訓示が出た。

 

 

念のため、これは方面軍の隷下全軍に出されたものであって、フィンシュ他の第十八軍だけではなく、タロキナで戦闘中の第十七軍も対象になっている。「必死敢闘」と聞いただけで内容も凡そ見当がつく。最後に「もって宸襟を安んじ奉らんことを期すべし」とある。

 

要は大命に沿って働けというもので、それを全文、戦史叢書が載せているのには事情がある。実際に命令書を起案したのは、方面軍参謀の原四郎少佐だった。元少佐の戦後回想によると、彼が起草した文章に、今村軍司令官が加筆した箇所があり、傍線が引いてある。現代仮名遣いに換えて引用します。この前段には、敵は困惑しているぞ、という激励がある。

 

 

然りと言えども、我もまた一小局部においては、敢闘の精神、十分ならずして、いたずらに敵勢力を過大視し、孤立最後の一人まで奮戦するの気迫に欠き、命令なくして守地を徹し、あるいは補給の困難に屈して、物欲の上の犯行を見るなど、反省三思を要するもの、なきにあらず。

 

もちろん訓示を聴いている各地の司令部としては、訓示を聞いても誰がどこを書いているのか知りようがないだろうが、通常、参謀が書いて司令官が語るようだから、とうとう軍司令官の知る所となってのお叱りかと思いつつ、これでは面目丸つぶれだっただろう。

 

 

なお、「三思」とは初耳だが、熟慮と同様の語意らしい。こんな言葉を一兵卒にそのまま聞かせても私と同じ反応だろうから、これは幕僚から幕僚へのメッセージに等しい。この人たちは職業軍人になるべく共に猛勉強しているから、こういう暗号みたいなものが出てくる。

 

通常、野戦の殺し合いには加わらない立場の軍人でも、果たすべき役割というのは多々あります。主計も衛生も通信もそうだが、幕僚、特に作戦参謀は、自軍の勝敗と生死が直接、関わる重責の職務です。でも多くは、徳川時代の武士とかわらない、読書階級のままのようだ。

 

スダジイの木

 

 

減らず口はこのくらいにして、第二十師団の第二期作戦における戦闘は、11月3日開始。当時、連合軍に押収された命令書が戦史叢書に載っている。各個撃破だけあって、見知らぬ地名が続々と出てくるもので、詳細は省きます。これを私が文章で説明するのは無理です。

 

 

同じころ、豪州軍は大規模な補給、増派を受け続け、その中に戦車が含まれている。豪軍はこの兵員・物量をもって、サ高地正面に集中攻撃をかけてくる気配を見せた。なかなか計画通りには進まぬものです。二十師は11月22日に、サ高地附近で決戦を行う覚悟を決めた。

 

 

しかし、先んじて豪軍は11月18日、「マチルダ戦車」4台を縦一列に並べて突進してきた。前陣の守備は第八十連隊第三大隊で、日本側の資料はないが、敵の記録によると、「豪軍の奇襲および戦車の投入を物ともせず、日本軍はその陣地を死守し、戦車の射撃でその陣地が吹きとばされるまで、機関銃、迫撃砲、手榴弾で反撃してきた」。

 

豪軍の戦車は地雷と爆薬で2台が損傷し、道も狭く、上空は樹林で覆われ空爆もできず、「戦車なしでの攻撃続行」に移行した。日本軍の抵抗は頑強で、対戦車壕が二重に陣地を取り巻き、夜になってもお互い近接したまま、手榴弾を投げ合った。

 

 

豪軍はまたも戦術を切り替え、ガソリンとディーゼル油に火を放つ「火責め」、大火炎が立った。これで豪軍はサ高地の一角に取り付く。残る陣地を固守していた前線の三宅部隊に、20日午後3時30分、師団長より「転進許容命令」が出た。

 

すなわち、サ高地の守りを続けつつも、「玉砕は避け」、やむを得ざる場合は転進すべし。師団司令部の決心は、このままだと火力の圧倒的な差異により、いたずらに部隊の消滅を待つばかりであり、それよりも再起を目指す。

 

 

11月23日には、敵戦車が十数台に増えた。砲撃は熾烈をきわめた。戦闘記録によると、前進する豪軍は、日本軍の小部隊を蹴散らしたとき、その場に病院と大規模な墓地があるのを見た。最後の急峻を、豪軍はよじ登りながら迂回し、手榴弾を投げ込んできた。

 

サ高地は落ちた。拾い上げた日本兵の日記から、彼らがシダや竹の芯を喰いながら戦っていたのを知る。正確な日時が不明だが、三宅部隊が撤収したのは、11月25日ごろであるらしい。この日、マダンの第十八軍では、合同慰霊祭があった。安達司令官の訓示の一部。

 

 

現下の戦争様相は、物質力と精神力の闘争にして、物質力、究極において精神力の敵ならざるは古今の鉄則なり、然りといえども、これが達成には、また異常の努力を要す。すなわち各指揮官の牢固たる決意の下、強烈なる統率により如何なる困難に際会するも、これを確守して金輪際、放たざるの堅忍持久、必死敢闘に俟たざるべからず。

 

同日に第二十師団から、転進決定の報告が届いたものだから、安達司令官は「玉砕命令」のごとき電信を発し、さらに再びフィンシュハーフェンに進出すると言い出したらしい。しかしすでに第二十師団は司令部を移し、次なる作戦に向けて部隊の再建中だった。ここで11月は終わりです。12月の次なる第三期作戦は、中部太平洋から戻ってきた後に続けます。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

初春のカワセミ  (2022年1月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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