セグロセキレイ

 

 

先の戦争の軍人には一人の知り合いもおらず、直接話を聞いたことがありません。よって特に個々人の業績や人品骨柄については、戦友や部下が書き残したもの、取材を受けての証言などを読む。多くの人が好く書いている人の印象は、当然それに影響されます。

 

南東方面では、海軍の山本五十六大将と、陸軍の安達二十三中将が典型です。どちらも妙な名前だが、五十六は父上五十六歳のときに誕生、二十三は明治二十三年生まれ。海軍甲事件のあとも、戦艦「武蔵」の甲板上で南の空をながめている水兵が多くいた云々。

 

 

今回は安達第十八軍司令官が本ブログでは初めて、第一線に登場します。昭和十八年(1943年)9月から10月にかけて、第二十師団の第一次攻撃において、師団長の片桐茂中将が自ら、10月11日、サッテルベルク高地に進出した。総攻撃の態勢です。

 

開戦劈頭、二十師は連合軍主力のオーストラリア陸軍を随所で圧倒したらしい。敵の主な陣地は、「アント」と「ジベバネン」で、師団はこの中間を突破、分断しようとした。前者の方面に歩兵第七十九連隊、後者方面に同八十連隊が向かった。

 

 

豪軍資料に、「日本軍は、我らよりも強い」という記載があるのを、陸軍の戦史叢書(58)が引用しています。しかし、この勢いも10月18日前後に止まった。その公的な理由を示す記録は残っていないらしく、戦史叢書は推測のうえ次のようなことを書いています。

 

ある部隊は敵工兵部隊の司令部を包囲したが、豪軍は知っていても、日本軍はそれに気付かなかった。各部隊間の連絡が取れなかったと戦史叢書はいう。第二十師団と第四航空軍の連絡も途絶えている。別の箇所に「無線封鎖」していたとある、奇襲夜襲の日本軍であった。

 

 

加えて、砲兵中隊は山砲を一門ずつ持つのみ、予備兵なし、地図なし、物資は空から当てもなく投下される袋を、密林内で探して回る。相次ぐ将校の戦死もあり、20日ごろから両軍対峙となり、敵の増派もあって、10月25日ごろ(命令文書不在)、同師団は撤退を開始した。

 

一方、マダンの地にいた安達軍司令官は、ラエ・サラモア以後の戦況悪化を踏まえ、作戦指導のため、東方フォン半島方面に進出した。10月にマダンを出発、海路舟艇起動で、10月19日、キアリに到着した。一行は約120名と一コ中隊並みの人数となった。

 

 

 

最初に、サラワケットを越えてきた第五十一師団らの視察。次に第一船舶団の労をねぎらう。この先が陸路で、サ高地には10月31日に到着。早速、戦況報告を受けて、次期の作戦命令を出した。11月の第二次作戦については、次回の話題とします。

 

ここでは余談風に、われわれ日本人の話の組み立て方というのは(特に軍人は)、最初に威勢のよい、あるいは聞こえの良い切り出し方をしつつ、後半は、「そうは言っても現実は」という本論に入る。このため、その途中で話の腰を折られると、私たちは不機嫌になります。

 

 

例えば近衛文麿の問いかけに山本五十六が応じたという場面。半年や一年なら思う存分あばれてみせる。二年も三年も長引けば、全く確信がない。山本長官の主旨は後半で、長引けば負けるから、それまでに政府が何とかせい、というのは伝わったのだろうか。

 

次々回の今村大将と安達中将の訓示にも、似たような構文が出てきますが、ここでは少し長く戦史叢書より、当時野砲兵第二十六連隊中隊長、堀内信男中尉(のち大尉)の戦後回想録から一部を転載します。軍司令官の巡回に立ち会っている。現代仮名遣いに換えています。

 

 

十一月上旬、第十八軍司令官安達二十三中将が前線視察の名目で「サ」高地に来られ、その帰途たまたま野戦病院の前を通られるのを目撃しました。

 

豪雨に打たれ泥濘に足を奪われつつ老骨に鞭打ち、はるばるフィンシの最前線まで来られた軍司令官の痩削し孤影粛然とした姿を目視し、フィンシ作戦に対する軍司令官の期待と苦衷が察せられ、胸衝かれる思いがし同情の念を禁じ得ませんでしたが、他方、貴方が来られるよりも物が来た方が有難い、補給はもっと何とかならんのですか、と叫びたい激しい衝動にも駆られました。

 

 

野戦病院というのは、名前が勇ましく聞こえるせいか、新型コロナの緊急治療所を、そう呼ぶ人もいます。ガダルカナルに遺骨収容に出かけた初期の戦友・遺族らの一行は、まず野戦病院跡に向かった。そこで集中的に死んでいるからです。最後のころは、せめて遺骸に砂をかけてもらえれば、まだしもまともな埋葬だった。

 

ここフィンシの深山幽谷にある野戦病院では、連日の豪雨と泥濘の中、薬物も包帯もないまま、数百名の傷病者が血と蛆にまみれていたと目撃談にある。軍司令官の最期から察するところ、この先も、彼は同じような光景を繰り返し見たのだろう。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

線路の数が自慢の日暮里駅  (2022年1月7日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

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