アオサギの飛翔

 

 

前置き。このブログは、ここ3年ほど、南東方面(南太平洋の東のほう)を彷徨っています。時間と空間の構成について、まず基本的には編年体(時系列)で進めております。地理的には伯父が陸軍兵だったため、ガダルカナルの陸戦から始めた経緯があります。

 

また、海軍の戦場はその性格上、あっちに行ったりこっちに来たりしますが、今までのところ、陸軍の戦いは、南東から北西に進んでいるので、陸戦の動きに合わせて海空戦の話題を挟んでいます。ここまでは比較的、整理ができています。

 

 

私にとっての問題は、南東方面の陸軍の戦場が、大別して第十七軍のソロモンと、第十八軍のニューギニアがあり、同時並行で連合軍が攻めてきているのに、日本側は軍単位で両所に分かれています。戦史叢書もこれには苦労しており、章の単位で交互に記載している。

 

本ブログは、私の出身地静岡の部隊がソロモンに派遣されていることもあり、主たる軸をソロモンに置いているため、苦しいことにニューギニアが断続的、断片的になってしまっています。そして再開するとき、時には遡って始める必要も生じます。これからも、そうなります。

 

 

昭和十八年(1943年)の11月。中部太平洋の話題に移る前に、南東方面の11月を一通り見てまいりました。最後がフィンシュハーフェンです。フィンシュに最後に触れたのが、昨年(2021年)の10月なので(第1229回以降)、ずいぶん間が開いてしまいました。

 

また、改めて戦史叢書を読んでいると、昨年10月の我が記事は認識が浅い箇所が多いうえ、航空戦が抜けています。このため、重複は覚悟のうえで、11月より前の出来事の整理から始めます。先ずは要図の確認からです。戦史叢書の附図を二点、拝借します(既出、再掲)。

 

 

 

 

この図はよく考えたものです。ソロモン諸島から東部ニューギニアの戦域は、おおむね日本の本州と同じ大きさで、似たような反り方をしています。東京あたりにラバウルを置くと、東北地方の太平洋側に、ラエ・サラモア・フィンシュハーフェン等が並ぶ。

 

フィンシュは、ニューギニア島からビスマーク諸島に突き出したフォン半島という、豊後の国東半島のような形状の地にあります。下の拡大図をみると、ほぼ半島の東端と申してよく、敵味方双方の海上要路であったダンピール海峡の南口にあります。

 

 

 

 

去年の秋に書きましたように、昭和十八年の9月22年に連合軍がフィンシュハーフェンに上陸しました。この日は、日本軍の厄日で、中部ソロモンでは北部への撤収命令が出た日。ラエではサラワケット越えが始まったころです。

 

敵上陸前、下の図でいうとフィンシュハーフェンと、その北にあるアント岬(敵上陸地点)の中間に、フィンシュハーフェン飛行場があり、周辺には大小発の基地もあって、陸軍は第一船舶団長を長とする船舶工兵部隊(ラバウルとラエの中継役)、海軍は警備隊を置いていました。

 

 

Winter has come.

 

 

陸軍はラエ・サラモアが陥落したため、この時点で最寄りの戦力というと、フィンシュの北西側(地図の外、ずっと左上)にあるウエワクに、第二十師団と第四航空軍の主力があります。先ず第二十師団において、ラエ方面の戦況悪化を支援する必要が生じました。

 

その一環として、急遽フィンシ地区には、ラエ後方の要衝として、二十師から歩兵第八十連隊が派遣されます。フォン湾沿いに北上してくるのに備えるためでしょうか、歩八十の主力は、フィンシュの南側にあるラングマーク湾の、更に南に陣地を置きました。サラワケットを越えてくる第五十一師団を収容する任務もありました。

 

 

上陸二日前の9月20日、第四飛行軍の哨戒機が、敵船団を発見します。しかし天候が悪く、敵上陸地点の見極めがつかぬまま、上陸日も荒天で攻撃できませんでした。また、敵上陸地点も用心していたフィンシュ南方ではなく、反対側の北にあるアント岬。

 

この日から10月にかけて、第八十師団や第四航空軍が上陸軍と戦った戦闘を、戦史叢書では「第一次攻撃」と呼びます。本ブログでは、昨年秋にこれに触れてから中断しています。第二次以降は「攻撃」ではなく「作戦」に代わり、以下、翌11月は「第二次作戦」にあたります。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

朝10時の不忍池、まだ随所にて結氷のまま  (2022年1月1日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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