香取神宮にて  千葉県香取市

 

 

ブーゲンビル島の陸軍に話を戻します。昭和三十八年(1943年)11月1日の連合軍によるタロキナ上陸作戦は、初動の場面を記事にしておりますが、忘れていた資料があったので、もう一度、11月1日に還ります。そして、しばしこの話題が続きます。

 

忘れていた資料とは書籍二冊で、「新聞記者が語り継ぐ戦争」(読売新聞大阪社会部編)の、「1.ブーゲンビル-墓島-」および「14.ガダルカナル」。本ブログが餓島を終えて、墓島を始める間に二冊を買ったため、本棚の奥で大休止になってしまった。お恥ずかしい。

 

 

ガダルカナル編は、追って過去に遡る形で参照します。今回はブーゲンビルだが、本書に限らず漢字で「墓島」の標記はよく出てくるので、当時の軍隊での発音は、一般にボーゲンビルだったのかもしれない。地の文は掲題どおり新聞記者が書いており、証言や引用を多く含む。

 

平成三年の発行とあり、鬼籍に入られた元日本軍兵士も多い時代に入っている。今回引用する手記を書いた人は、本ブログの第1256回と第1257回で題材にした、歩兵第二十三連隊のタロキナ守備隊のうち、「ただひとり、戦後を生きたその人」と紹介されている。

 

 

さらに、上記の過去の記事において、歩二十三の連隊砲中隊と第一大隊第二中隊の当日生還者各一名と、軍医久保准尉が登場したが、その三名がこの手記に出てくる。戦史叢書では報告書にある無名兵士だったが、こちらは実名で、さらに戦場での経験が語られている。

 

引用部分の出典は「都城歩兵第二十三連隊戦記」。筆者は当時、連隊砲分隊員の坂元道雄伍長(宮崎市出身)だった。この著者が唯一、あの日のタロキナから生きて本土に戻っていた陸軍軍人であり、ただし読売新聞の取材時には故人となっている。

 

 

昭和十八年十一月一日、この日は私にとって生涯忘れることのできない悔しい思い出の日である。ブーゲンビル島タロキナ守備隊は、前日久しぶりに加給された明治節(十一月三日)の祝賀の酒や甘味品をふところに、陣地の掩蓋壕の中で寝静まっていた。

 

翌々日には味わえるはずの祝いの飲食を懐中に、寝床にいた守備隊員に深夜、中隊長から非常呼集がかかった。七名の連隊砲砲手はただちに配置についた。西方海上の水平線に、三十隻余の船団が夜目にもはっきり見えた。戦友と顔を見合わせる。

 

 

郵便王のお墓  神奈川県横須賀市芦名

 

 

そして経験したことのない激しい砲撃が始まった。そして、静かな睡魔にも襲われたというから、戦場というのは今なおよく分からん。砲撃が止んだと思ったら、轟轟たる飛行音とともに上空からの爆撃が始まった。艦砲よりきつかった。

 

そして、三十隻か四十隻くらいの上陸用舟艇が、自分たちの陣地に近づいてくる。守備隊の機関銃と小銃の射撃が始まった。坂本伍長は真っ先に山砲に取り付き、照準を合わせて第一弾の発砲を命じた。先頭の舟艇に命中。

 

 

それからは夢中で発砲を続けているうちに、壕内にあった砲弾百五十発の約半数を撃ち尽くした。そのとき突然、砲弾の装填ができなくなった。装填口が熱で膨張、変形したのか、弾込めができなくなった。手元には拳銃と手榴弾しかない。やむなく撤収を決めた。

 

堀之内守備隊長の「擲弾筒」と叫ぶ声が聞こえてきた。その呼び声もやがて絶え、「隊長殿はそこで戦死されたのかもしれない」。回想記執筆の時点でも、中隊長戦死の時刻や場所が分からない。著者も右前膊部(右腕の肩と肘の間)に砲弾の破片創を受けていた。

 

 

壕内は土砂に埋もれた戦友の亡骸だけで、生存者は自分ひとり。守備隊本部に向かって歩き出したが、そちらからは連合軍のものと思われる自動小銃の音が聞こえるばかりだった。負傷の右腕を吊り、血に染まった軍服はボロボロになっていた。

 

さらに、タロキナ岬の北方2キロにいるはずの、中隊の後方、二個小隊を訪ねて密林の奥に入った。ここで小隊長に、大隊本部への伝令を命ぜられ、戦況報告のため本部に向かった後のことは、戦史叢書に出ている。そのとき50人ほどいた予備の小隊も、まもなく全滅した。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

バス停の名が「地蔵前」  千葉県松戸市

(2021年11月11日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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