前々回の続きです。歩兵第七十九連隊は、歩八十とともに、第二十師団の隷下にあります。京城(現在のソウル)に置かれた。ガダルカナルのころ、逐次投入されていた支隊や師団の多くは、旧蘭印を始め近隣から動かしました。
だが足りなくなったらしい。当初はガダルカナルに投入予定だった第六師団と第五十一師団は大陸中国から、第二十師団は朝鮮半島から運ばれて、ソロモン又はニューギニアに投入される。この輸送と駐留だけで、莫大な経費を要したはずですが、会計帳簿を見たことがない。
当時の日本には、精強を誇る陸軍部隊がたくさんありました。そのほどんどは自己申告制でありますが、戦史叢書にもはっきり二十師は精強だと、どこかに書いてあったのを覚えています。それなのに、道路工事かという文脈でした。戦闘部隊が、兵站係をやっておるのです。
今回の資料は、前々回と同じく「丸」別冊にある福家隆氏著「フィンシュハーフェン緒戦の実相」という回想録です。福家隆(ふけ・たかし)氏は、当時歩兵七十九連隊第五中隊長・陸軍中尉と紹介されています。
冒頭、日米開戦当時には大本営も含め、誰もニューギニアという「原始未明」の島の存在には関心を持っていなかったが、十七年暮れから十八年いっぱいにかけて、島の東半分が陸上決戦の重点となり、陸海空あわせて約二十万の大軍が送り込まれたとある。一部、引用します。
当時、日本軍随一の精強と謳われていた第二十師団は、昭和十六年六月の関特演(関東軍特殊演習)とともに対ソ作戦兵団として、開戦以降も、南進諸兵団の快進撃をよそに、黙々と北方作戦への訓練に邁進していたところ、十七年十二月はじめ、突如、南方への動員の命が下った。
宿敵ソ連どころではなくなった、と言ったら言い過ぎかもしれませんが、マレー作戦にも参加していないのに南太平洋とは、やはり一大事。行く先は明示されなかったが、誰の目にも「頽勢覆うべくもないガ島」であるのは明らかだったと書いている。
なんぼ大本営発表がごまかしても、緘口令を敷いても人の口には蓋ができない。戦傷病で後送される将兵もいれば、海軍はしばしば本土に戻る。一木支隊と川口支隊の現地写真は残っているが、現地に送った従軍記者は消息不明になっただろう。そして、あちこちでお葬式。
一方で、著者はダガルカナル撤退を決めた大晦日の御前会議も、正月明けの大命も、戦後になるまで知らなかった。ガダルカナルで終わる人生と思って出かけたところ、一転して東部ニューギニア行きになった。師団は1月から3月にかけて、ウエワク、ハンサに渡った。
そして十八年(1943年)4月から、マダン-ラエ間の自動車道建設に従事する。しかし、工事いまだ半途にも及ばぬ9月上旬、ラエ・サラモアの第五十一師団が全滅の危機に陥った。第十八軍は、8月に第八十連隊の急派を手配したところだった。
続いて天下の嶮たる箱根のごときフィニステル山系において、円匙と十字鍬で道路工事中だった第七十九連隊にも、9月5日(ラエ背後に敵落下傘部隊が舞い降りた日)、工事中止、フィンシュハーフェンへの急進の命が下った。
しかし、300キロもある。さらに地勢は山岳の急峻海岸に迫り、スコールが降れば河川に濁流が渦巻く。行軍途中の9月22日、とうとうフィンシュに敵軍が上陸してきた。最初は「豪軍一コ旅団上陸」と伝わったらしい。最終的には三コ旅団にまで増派された。
第二十師団は戦闘や兵站作業のため、各地に分散している。第一船舶団等の守備隊が上陸軍と戦い始めて約一週間、9月30日の段階で師団司令部は、サラワケット越えの目的地だったシオにあり、歩七十九の連隊本部と第七中隊他が集結した段階だったと戦史叢書にある。
この連隊の戦闘が、サッテルベルク高地に到着したのが10月中旬で、著者の第五中隊を含め歩兵四コ中隊と、山砲一門・準備弾薬五十がサ高地に集まったのが10月15日。この兵力で翌16日午後4時戦闘開始となった。高地からダンピール海峡が見える。
二か月後には兵力半減して転進となったジャングル内の戦闘のことは、四十年経っても「脳裏を消え失せない」。師団は作戦を立て、訓練をすでに行っていた。すなわち、一コ中隊をもって海上を挺身機動、敵背後に逆上陸して先制し、主力が陸から挟撃する。
この海上からの奇襲隊には、著者の連隊内で唯一の同期だった杉野一幸中尉が率いる第十中隊。しかし肝心の主力は、行軍がなかなか進まない。漆黒の闇の中で前を行く者の背中をつかんで進む。加えて激しいスコール。
雨音の中に航空機の爆音が聞こえ、海岸の方向に銃声があった。著者は「杉野が突入したな」と気が気でなかったが、密林を抜け出したときには夜が明け、敵の斥候に見つかり、迫撃砲弾が落ちてきた。地隙と鉄条網に阻まれ、容易に進めないまま夜になった。
この間に後続の第三大隊が右に展開し、台上に敵陣地を発見して、甲谷俊輔中尉の第九中隊が、これに夜襲をかけた。この台地が、かつて第八十連隊の守備隊が本部を置いていたカテカの高地で、今は豪州軍の工兵大隊本部になっていたのだ。
甲谷中尉は先頭に立ち、抜刀のまま数弾を身に受けて戦死。重傷ながら交代した小西博文中尉が、よく中隊を指揮し、カナカ高地を占領した。この惨烈さには、観ていた砲兵が驚いたと記録にある。しかし著者の上官、第二大隊長の竹鼻嘉則少佐から、突撃の命令が出ない。
支那事変で殊勲甲の豪遊な部隊長がどうしたことか。戦後にわかった。竹鼻大隊長は敵情不明のため、この時点で師団および連隊の主力である同大隊の軽々な突進を控えていた。そこに連隊命令が来た。天明とともに、速やかに前進せよ。
(つづく)
半世紀ぶりに見た、うどんげの華 (2021年9月19日撮影)
おまけ。益子焼にルリマツリの一輪挿し。
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