栗の季節であります

 

 

前回の医者は「マンガ」と書いているので、参照したのは「水木しげるのラバウル戦記」や「水木サンの幸福論」のような活字主体の書籍ではなく、「総員玉砕せよ!」だろう。前記のとおり同書は、「九十パーセントは事実」なので、事実関係を補足します。

 

「水木しげるのラバウル戦記」に、昭和十九年(1944年)の正月過ぎ、ラバウルから故郷境港の母にあてたハガキの写真が載っている。以下、本ブログの現時点より先だが、水木作品にいつまた戻れるか分からないため、今回限りで続けます。差出人の欄に、こう書いてある。

 

南海派遣

沼八九二五部隊 成瀬部隊 児玉隊

武良茂

 

 

武良茂が、水木しげるの本名です。立派な軍人のごとし。沼八九二五部隊というのが、岐阜編成の歩兵第二二九連隊です。「沼」は、他に名古屋の歩二二八と静岡の歩二三〇を含む、第三十八師団の通称号。大隊長の名は作品中では仮名になっているが、上記によれば成瀬部隊長。ハガキの検閲欄に「児玉」と捺印されている。

 

本書には、玉砕を急ぐ大隊長と、これを諫める中隊長の会話が登場する。ほかの人のブログをのぞいていたら、この戦争中に上官にこんなことを言うはずがないと書いてあったが、陸軍の戦史叢書(84)の「トリウとズンゲンの戦闘」の文中に、正反対のことが書いてある。

 

 

この回想録にある「玉砕攻撃」か、「遊撃持久」かという議論は、極限状態における戦闘の末期に、必ずと言ってよいほど起こる論争である。成瀬支隊長は前者を採り、児玉中隊長は後者を主張したのである。

 

文頭の「この回想録」とは、ズンゲン守備隊の本部に勤務していた堀龜二軍曹のもので、実に詳しい。また戦史叢書によると、豪軍戦史との矛盾もない由。なお、大隊長成瀬懿民少佐が、支隊長となっているのはなぜかというと、他隊と混成になったからだ。

 

 

この点についても戦史叢書に言及がある。歩二二九の成瀬大隊は、混成第三聯隊から派遣された集成中隊(長・児玉清三中尉)ほか、機関銃と迫撃砲の各一コ小隊を併せ、成瀬支隊(ズンゲン守備隊)となった。これが水木二等兵のいた軍隊です。

 

 

天竜川のハクセキレイ

 

 

関連情報が、ガダルカナルで散々お世話になった名古屋の「歩兵第二二八聯隊史」に出てくる。同連隊は、同じニューブリテン島で近接地の守備をしており、昭和十九年十月、ズンゲンに隣県岐阜の連隊から、成瀬大隊が来て心強く思ったとある。

 

しかしこの「噫々ズンゲン守備隊」という回想録は、翌二十年三月、オーストラリア軍が上陸を開始したと戦史叢書にもある3月17日に、ズンゲンの方向から「殷々たる砲声」を聞き、翌18日に「遂に砲声の音絶ゆ」とある。

 

 

この日付は、「総員玉砕せよ!」の中で自決する中隊長が、家族に自分の命日は三月十八日と伝えよと部下に語る場面と平仄が会う。水木によると、「ベリリウに続け」とよく言っていたそうだ。パラオのペリリュー島の戦いでは、殆ど生存者がいなかったと伝わってきていたらしい。

 

ところがズンゲンでは、生き残りが数十名出たため、師団参謀に責任を問われ、先任将校二名が自決した件も、さらに、これに先立ちラバウルに赴き、師団司令部で支隊の窮状を訴えて拳銃自殺した松橋軍医中尉の件も、戦史叢書に記載されている。

 

 

最後に堀軍曹の手記から、戦史叢書も統率上、極めて重要な問題提起だと呼んでいる箇所を転載します。水木しげると同意見だ。なお、ズンゲンの戦いの詳細は、いずれまた時系列で進む先にて題材といたします。

 

ラバウル十万の将兵の亀鑑となれ、全体のためには一隊の死こそ尊い。こんなことを落城寸前に言い出しても、なんのたしにもならない。やはり長い訓練と教育によって完成さるべきものなのだ。

 

 

(おわり)

 

 

 

秋桜の季節です  (2021年9月18日撮影)

 

 

 

 

 

【追記】 ほら、やっぱり、お化けは死なない。昨日の朝刊。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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