ツクツクボーシ
これまで何十回か、第十一航空艦隊(十一航艦)という部隊名を気軽に引用してきたのだが、これはそもそも何なのか。九も十も聞いたことないのに、なぜ十一なのか。本ブログはこのレベルですので、お気を受けください。
これも戦史叢書とアジ歴グロッサリーのおかげで、ようやく概要はおぼろげに分かったつもりでいる。大先輩の第一航空艦隊は、後にミッドウェー海戦で大きな被害を受ける空母をそろえた機動部隊であった。第十一航空艦隊は、対米開戦前に基地航空部隊として新編された。
昭和十六年(1941年)1月に新設。当時の対戦相手は中華民国です。太平洋戦争が始まると、翌年4月にテニアン島に進出する。さらに、同年8月にガダルカナルの戦いが起きると、テニアンからラバウルに移った。
雑多な整理でありますが、航空部隊のうち、連合艦隊が有する機動部隊が一桁から始まり、私が知らないだけで、第十まで来たあと、第十一が本ブログに登場したらしい。この十一航艦の隷下には、複数の二十番台の航空戦隊があり、すでに二十四航戦に触れました。
テニアン島に十一航艦の司令部が進出してきた4月、組織改編で同部隊の隷下に、第二十五航空戦隊および第二十六航空戦隊が新たに編成され、ラバウルに置かれたと、海軍の戦史叢書(49)にある。
ただし、航空機が大きく増強されたのではない。むしろ、これから受け入れが始まるほど、すでに損害大だったらしいのだ。らしい、とは曖昧だが、戦史叢書も委細が分からないらしい。
少なくとも執筆当時、機数の記録くらいしか見つかっていない。
同書によると、第二十五航戦は三つの航空隊からなり、その定数も含めて並べると、まず台南航空隊(台南空)の戦闘機45機および陸偵6機。次に第四航空隊(四空)の陸攻36機。のちに七〇二空と名を変える。最後に横浜航空隊(浜空)の大艇12機、水戦9機。
数字はあくまで「定数」です。他方、実際に4月1日に稼働可能だった機数が戦史叢書に載っているが、定数を満たしているのは浜空の水上機のみで、台南空と四空は半数にも満たない。戦史叢書は、3月1日の段階では定数近くが配備されていた記録を示し、こう書いている。
その後ある程度の補充も行われたが、連合軍の反撃および損耗により減少したものと思われる。ラバウル方面における航空戦の厳しさを示すものであろう。
カマキリの幼生
このころの日本軍は、前回すこし触れたように、ラエ・サラモア方面への進出を図っていた。この方面に航空基地を備えんとし、それを果たした。サラモアに南海支隊が上陸し、飛行場建設に着手したのが1942年3月上旬。
そのころから米豪軍の反撃が激しくなった。B-17が登場したのもこのころ。敵機はモートモレスビ―から来襲してくると見た。こうしてニューギニアの上空では激しい航空消耗戦が続いた。なお、フィリピンを追われたマッカーサーが、ブリスベンに着いたのもこの3月のことです。
海軍全体の方針として、昭和十七年は3月に上記のラエ・サラモアの攻略、翌4月にツラギ・ブーゲンビルの攻略を計画していた。とはいえ戦史叢書も語るように、いきなり豪州に攻め込むような速攻的なものではなく、ラバウルを中心に置いた守備固めの作戦であったらしい。
聯合艦隊はまだ本土の内海にいるし、トラックの第四艦隊は、珊瑚海からモレスビーに向かう計画でした。しかし、敵は当方の意向にかかわらず、上空から航空機が、また「レキシントン」ら航空部隊が近海をうろつく。ラバウルは戦力強化が急務だった。
(おわり)
ガマの穂 (2021年8月18日撮影)
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