中部ソロモンの話題は、昭和十八年(1943年)の8月に入ります。「完本・太平洋戦争(上)」(文藝春秋編)に、花見弘平氏著「ケネディを沈めた男」という手記が収録されています。こう始まる。「ケネディなんて、知らなかった」。

 

この文章が世に出たのは、昭和35年8月1日号の週刊文春で、当時の原題は「昨日のわが敵・大統領候補ケネディ」だったと紹介されています。すなわち、これが書かれたのはケネディが大統領になる前のことだ。

 

手記の最後も、「私は”昨日の敵”がアメリカ大統領になる日を、楽しみにしている」と結ばれている。願いは叶い、その後のことは書かれていない。著者の花見氏は、この人物を沈めたとき、海軍少佐で駆逐艦「天霧」の艦長だった。すなわち前回の続きです。

 

 

手記によると「天霧」がクラ湾夜戦で輸送隊を務めたとき、帰路に敵艦隊と遭遇し、直撃弾だけで5発を喰らい、無線電信室ほか「かなりの損傷」を受けた。「天霧」に乗船していた第十一駆逐隊司令の杉野大佐は、「杉野はいずこ」の令息で、「立派な方だった」と書いている。

 

その司令に「艦長、今日は駄目だよ」と言われ、「やりましょう、できるだけは」と応じた。沈まずに済んだのは、直撃弾が炸裂していなかったからだとある。「米軍には、不発弾が多かった。それは、試作品を使いながら改良してゆくからだ」そうだ。

 

 

工業力とこの手法で、ますます良いものが出てくると、手記は続く。日本は確度重視で、なかなか正式に採用されない。「無駄ダマは撃たせない」のだそうです。それでも「天霧」の修理は、ラバウルで二十日ほどを要した。そして再出発の8月1日夜。

 

前回の話題だったコロンバンガラ輸送では、輸送隊三隻の揚陸が終わり、警戒隊の「天霧」は最後に泊地を離れた。星のない夜。昼は飛行機、夜は魚雷艇に悩まされるプラケット海峡。花見艦長は艦橋に立って闇を見つめていたところ、日付が変わった2日午前2時ごろ、艦長は右前方、約千米に白波を蹴立てて来る何かを見た。

 

 

「右十度! 前進全速!」。私は、そう叫んだ。魚雷艇は長さ三十米足らず、乗員十数名の小さな船だ。当時、魚雷艇に関しては、衝撃戦法が唯一のものと考えられていた、つまり体当たりだ。三十二ノットでまっしぐらに突き進んだ。

 

 

もっとも、この体当たり戦法の有効性は理論的なものらしく、実際には61ノットまで出る敵魚雷艇には「スルリと体をかわされてしまう」ため、彼が聞き及ぶ範囲では、このときの成功が空前絶後であるそうだ。その相手の艇長がケネディ少尉だった。

 

彼の魚雷艇はかわすどころか、ぐっと近づいてきて、真向からぶつかった。駆逐艦の艦橋から、人影は見えなかった。この敵魚雷艇は、火を吹きながら「天霧」の両舷を擦過し、船尾付近で沈んだようだった。艦橋ではほとんど衝撃を感じなかった。

 

 

スクリューにぶつかって沈んだらしいが、航行には差し支えない程度の損傷だった。ただし、舷側の塗料が、魚雷艇の火炎で焼きただれているのをラバウルで見て驚いた。これが僚艦からも見えた火花なのだろう。先を急ぐ「天霧」は、即時沈没した敵魚雷艇の乗員は当然全員戦死とみて、海域を離れた。

 

戦後も花見艦長は生存者がいるなどとは考えた事もなかった。それなのに、昭和二十六年(1951年)の秋、来日したジョン・F・ケネディというアメリカの下院議員から、国連協会の細野軍治氏あて伝言があった。福島在住の花見氏に会えぬまま、議員は帰国せねばならなかったらしい。こういう言伝だった。

 

私は、南太平洋で戦った。そして、私の魚雷艇が撃沈されたことは、忘れ得ぬ思い出だ。私の艇を沈めた駆逐艦長に、ぜひ会いたい。さがして貰えないだろうか。

 

 

クサガメの日光浴

 

 

花見元艦長も、むろん覚えていて、「なつかしい」と思ったそうだ。あのとき二人が数メートル離れてすれ違い、その翌年に花見艦長は「国宝」などとおだてられていた駆逐艦や潜水艦が酷使されたためか、体を壊し船を降りて横須賀に渡った。

 

乗艦の「天霧」は、まもなくマカッサル海峡で機雷に触れて沈んだ。九死に一生を得て、戦争は「もうこりごりだ」、「もうごめんだ」と思っていた。戦いが終わり、ケネディは下院議員になり、「私は百姓になった」。そこに細野氏からの連絡が届き、さっそく返事を書いた。

 

 

かねて、アメリカの対日政策に飽き足らず、向米一辺倒の日本にも不満を感じていたのだという。「治外法権的な不平等条約を、なるべく早く改めるようにしてほしい。それが、本当に日米親善を具現する所以である」。うむ、まるで日本政府代表だ。あの戦場で彼は勝者だった。

 

とはいえケネディ議員が気分を害しないかとおそれていたところ、「案に相違して、嬉しい返信が来た」。ケネディが大半の部下を引き連れて、南太平洋の孤島から生還した話は、戦時中にアメリカの新聞に報道された。

 

 

これで名を挙げ、手紙のやり取りが始まったころ、ケネディは上院議員に立候補しており、「選挙の役に立った」と率直に書いてきた。転んでも唯では起きない。花見氏の日米外交論にも賛意を示してきた。「心のひろい、話のわかる人だと思った」。

 

今度は元艦長、張り切ったようで海戦当時の手記と、「天霧」およびご自身の写真を送った。ケネディも署名入りの写真を返信してきた。「若々しさにあふれた、いい男である。今年、四十三歳だそうだ」。ケネディが脊椎あたりの手術を受けたときは、お見舞いの手紙を出した。

 

 

クリスマス・カードの交換もした。この手記が公表された1960年は私の生年で、雑誌に記事が出た8月は、ちょうど大統領選挙期間中だった。オリンピック・パラリンピックと同様、うるう年に行います。このあとケネディはニクソンとのテレビ討論会で優位に立ったと聞く。彼は花見元艦長の念願かなって、アメリカ大統領になった。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

小さかったころ近所に咲いていた花はよく覚えている。

夾竹桃  (2021年5月27日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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