ムラサキツメクサ

 

 

前回の海軍に引き続き、今回は陸軍の戦史叢書(40)です。書名は「南太平洋陸軍作戦<3>ムンダ・サラモア」です。前に書きましたが、最初のうち「ムンダって何だ」と思っていました。ガダルカナルの戦いのとき、もう終盤になって海軍が建設を急いだ飛行場の一つが、このムンダでした。中部ソロモンのニュージョージア島の南西端にあります。

 

中部ソロモンの戦場は、主に次の地図(戦史叢書より)にある島々です。左上(北西)に丸いコロンバンガラ島。その右に、一番大きなニュージョージア島。その南東にバンヌグ島。また、ニュージョージア島の西部南方に、レンドバ島があります。地図の外ですが、コロンバンガラの西に、ベララベラ島がある。他にはずっと北のイザベル島にレカタ基地がある。

 

地図内に航路が描かれているように、連合軍はレンドバ島の北端に上陸し、リーフを隔てて反対岸にあるニュージョージア島のムンダに渡る作戦を実施しました。守備の部隊を送り込んでいる陸軍は、これをどのように予測していたのか見ます。上陸作戦が行われたのは、昭和十八年(1943年)6月30日ですが、陸軍は8月ごろだろうと予測していたらしいので確認します。

 

ムンダには、これまで見てきたように、陸軍の南東支隊(長・佐々木登少将)および海軍の八連特(長・太田実少将)という陸海の陸上地域拠点がある要地です。まず結果からすると、ニュージョージア島では、その8月にムンダが占領され、10月までにコロンバンガラとベララベラから撤退し、中部ソロモンから敗退する。

 

 

ラバウルの第八方面軍は、これまでいくつかの具体例をみてきたように、東部ニューギニアでは積極的な輸送や基地構築の活動を行いつつ、中部ソロモンにおいては、この方面を重視する海軍との協働態勢にありました。6月2日に、南東支隊と八連特が締結した現地陸海軍協定は、名称からして「ニュージョージア方面防衛に関する陸海軍現地協定」であり、海軍基地の防衛が主目的です。


大本営も第八方面軍の強化策を「矢継ぎ早」に実施しつつあり、しかし敵の戦力増強の進展はそれを上回り、ニューギニアでもソロモンでも、むしろ相対的には戦力差が開きつつある。方面軍は司令官を筆頭にニューギニア現地の視察を行いました。態勢強化は「前途は尚遠く」の状況でありました。そして6月下旬、内地から大本営の次長職らがラバウルに出張して協議した。

 

 

 

第八方面軍は、東部ニューギニア方面の敵襲来は、すでに間近とみる一方、「ソロモン方面については七、は八月ころ、わが海上補給遮断、航空隊撃破ののち、ニュージョージア島に来攻するであろう、との判断でいた」。一方で、ニューギニア方面で攻勢に転ずる準備が出来上がるのは八月になるという点で、6月29日、現地海軍も、大本営からの出張団も見解の一致を見た。つづきを転載する。

 

思えば、この六月三十日は日米両軍にとって、作戦指導上一段階を画する日であった。すなわち日本側は既述の中央協定案が調整を完了し、実質的に方面軍第二期作戦が動き始めた日であり、米軍側は中部ソロモンとニューギニア二方面同時に攻勢を開始した日である。

 

 

同じ「画期的」とはいえ、日本側は陸海と中央現地の意見がまとまった日であり、連合軍側は上陸作戦を開始した日です。この日、ラバウルを経った大本営の一行は、おそらく本土に到着してから、この動向を知ったにちがいないと戦史叢書も書いている。では、カートホイール作戦の第一弾について、ここでは決定に至るまでの経緯は省き、実績のみを記します。

 

6月30日、連合軍は、長いニューギニア島のスタンレー山系の先端沖に浮かぶウッドワーク島およびキリウイナ島(今も同じ名で地図にあります)、これから激戦場になるサラモアの南方30キロにあるナッソウ湾、そして、中部ソロモンのレンドバ島に上陸した。大まかに分けると、ニュージーランドはマッカーサー軍の進攻。レンドバ・ムンダ以外の三か所は、以後の作戦遂行を掩護するための航空基地とする目的です。

 

ソロモン諸島はハルゼー軍の担当で、レンドバは目標地ではなく、その先のムンダに向かっている。戦史叢書は、米軍資料からの引用として、「即時攻撃の目標でない日本側の施設は、中間に残して行く」と書いている。日本陸軍の発想は、戦国時代も日露戦争も同様、眼前の敵の出城を一つずつ潰していく歩兵的な戦法のままなのではないか。敵さんは島伝いではなく、飛び越えて行く。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

上野不忍池の睡蓮  (2021年5月8日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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