ダイサギ 姿、佳し

 

 

昨年末に読んでいた陸海の戦史叢書には、ビスマルク海海戦の直後の現地の混乱および大本営による次段階方針の検討状況などが記されておりますが、ここではそれは次の話題として、先に当時の体験者の手記を幾つか参照いたします。

 

ますは、単行本の鈴木正巳氏著「東部ニューギニア戦線 地獄の戦場を生きた一軍医の記録」(戦誌刊行会)から始めます。ガダルカナルの戦いでお世話になった長谷川軍医の記録は、ご本人が民間の病院で在職中にいきなり赤紙で召集されたこともあってか、どちらかというと軍人から少し距離を措いたような趣だったように思います。

 

 

けれども、鈴木軍医は陸軍軍医学校の卒で、北満から東部ニューギニアまで続けて満十年の軍隊暮らしとあって、世間が元軍人には冷たいこともあったであろう戦後においても、あとがきで「戦後も、私が現役の軍人として働いたことを誇りにこそ思え、一度も卑屈な気持ちになったことはない」とお書きだ。

 

同書の出版は1982年だが、あとがきによると十年ほど前に書き上げた原稿を、機会あって世に出すことになったとあるので、私が中学生ぐらいの戦後三十年あたりに著されたものです。ここでは主に古い本を読んでいるので、どんな時代に書かれたものか気になることがある。1970年前後は七十年安保から、あさま山荘事件に至る左翼運動が激化する時代でした。

 

 

本文は昭和十七年秋から始まる。中国の済南陸軍病院で内科伝染病診療主任で軍医大尉だった鈴木氏は、「第十八軍軍医部員」への異動命令を受け取った。11月14日までに陸軍省に来いというが、今日は11日であと三日しかない。送別会の暇もないなと上司に言われた。交通の便も良くなくて翌日さっそく出発。

 

ここが軍隊の変なところだが、その第十八軍というのが、どこに派遣されるのか教えてくれない。軍人の準備だって戦争のうちだろうに、さっそく著者も身支度に困った。どうやら部隊長が北支にいるはずの安達ニ十三中将らしく、しかしガダルカナルから始まった太平洋の「険悪な戦況」も伝わり、結局、冬支度と夏支度を両方揃えて梱包した。

 

 

山海関を越え、釜山から下関に渡り、急行で東京に着いたのが11月16日。陸軍省は三宅坂から引越して、市ヶ谷の丘の上にある。陸軍士官学校、参謀本部もあり、戦後は東京裁判が行われ、三島由紀夫が自決。その一角に「十八部隊演習場」という看板があった。上司は軍医部長の水野操大佐。戦史叢書に軍医部長はビスマルク海海戦で戦死とある。

 

やはり軍司令官は北支から同じころ異動してきた安達中将。参謀長は吉原矩少将(当時)で、本書には吉原参謀長の戦後手記「南十字星」の引用が多く、追い追い孫引きいたします。軍医部の隣の建物に、第八方面軍司令部が編成業務中だった。ニューギニアに行くことが分かった。敵の御大将は海と島が「ハウゼ―」、陸地は「マッカーサー」と聞いた。まえがきより。

 

 

東部ニューギニア戦は、敵将アイケルバーガーも言っているように、古来戦史に比例のない凄惨苛烈なる戦場であった。勿論、硫黄島や沖縄等激戦地は数多あるであろうが、東部ニューギニア戦は、昭和十七年七月から二十年八月までの満三年、終始変わらぬ激戦が続いていたこと、加うるに本土から五千キロの遠隔地で、しかも制海権、制空権を敵に奪われ、全く補給のない瘴癘の熱地で戦ったことを思うべきである。

 

 

瘴癘とは、コトバンクによると「特殊の気候や風土によって起こる伝染性の熱病。マラリアなど。」だそうです。医学用語か。ニューギニア島では本土の倍もある作戦地を担当し、機動力も食糧もない。この本はその山野にて、「蟻にたかられ、蛆虫に食われながら、一人淋しく南十字星を眺めつつ、野晒しとなっていった戦友の心境」を思いながら書かれた本です。

 

記憶では11月23日、宇品から輸送船「秋津丸」に乗って出航した。友軍機の護衛は豊後水道までで、そのあとは全くの一人旅。第八方面軍や第十七軍の司令部と同乗なので、船内を大きな顔をしてある訳にもいかず、船底で大人しく暑さに耐えていた。道中、救命や移乗の訓練や講義が続く。11月29日、ラバウル着。すでに連日の敵機空襲が始まっていた。

 

 

小高い丘の上に赤十字の旗が上がっていて、聞けば海軍の病院だという。源田実参謀がラバウルでマラリアに罹り入院した山の上の病院というのは、ここかな。ちょうど入れ違いで源田参謀は大本営海軍部に戻る。港は水深もあり美しく済んでいたが、味方の船の残骸が沈み、マストや船首のみ顔を出している。

 

軍医の初仕事は、上陸早々、自分達の揚陸を担当する作業員のうちから、日射病患者が出た。命は取り留めたが後送された由。この治療が軍医部長の耳に入り、「労務者の一人や二人死んだってかまわん」と叱られた。このようなやり取りが続いたためか、軍医部長は上陸作戦から著者を外した。結果的に命拾いになる。到着最初の夜も空襲で戦傷者が出た。

 

 

シャボン玉

 

 

前にもどこかで引用した覚えがあるが、吉原矩参謀長の著者「南十字星」の一節で、安達軍司令官がニューギニアに渡ると言ってきかず、参謀長がいくら引き留めても駄目。やむなく今村方面軍司令官に頼み込み、「軍司令官はラバウルに在るべし」という、「珍無類の方面軍命令」が出た。

 

昭和十七年(1943年)中は、主戦場のブナ方面への陸兵の移送や補給を駆逐艦隊が行い、クムシ河口やマンバレー湾に揚陸していたが、敵機の猛爆に損害が続出し、潜水艦の出番に切り替った。ガダルカナルでいえば、ネズミ輸送からモグラ輸送に移った。往航で増員や物資を輸送し、復航で傷病者を後送してくる。その手当を行うのが鈴木軍医の日課になった。

 

 

ブナから送られてくる将兵は、例外なく痩せ衰え、あるいは全身に浮腫を生じ、青黄色く、かつ黒ずんだ一種異様な顔色をし、目は落ち凹んで、まことに幽鬼のようにぞっとする姿であった。着衣はほとんどぼろぼろで鼻をつくような異臭を発していた。人間がこんな姿になりうるのだろうかと不思議に思ったものであるが、これこそ後のニューギニア全軍の将兵の姿であり、私自身の姿でもあったのである。

 

 

ベテランの軍医も驚く状況に、本土からも軍医の増員があった。著者の学生時代の恩師だった佐々木進少佐は、親戚の御不幸で遅れて来ると聞いて期待して待っていたところ、ラバウルに向かう途中、乗機が撃墜され戦死したという悲報が届いた。この佐々木軍医は、第585回で触れた。辻政信を治療し、出征した直後の遭難でした。

 

ラバウルとニューギニアでは、デング熱患者が続出して多忙を極めているうちに、ブナ守備隊に危機が迫り、とうとう撤収の検討に入った。熱帯で迎えた元日は気分が出なかったうえに、翌2日、ブナの部隊は全滅する。本土の軍令部からは、ブナ附近から撤収し、ラエ・サラモアに移動せよとの命令が来た。

 

 

ラバウルから生存者の支援に行くことになった。撤退命令は参謀若月少佐自らが潜水艦に乗ってブナを目指したが、沈没して戦死。出迎え部隊は、吉原参謀長が懇請して快諾を得た、独立混成第二十一旅団の工兵隊長、石川正路少佐。一週間で初めての舟艇機動のための訓練を済ませ、大発に乗ってブナからの撤収に貢献した。

 

他方で著者は、二代目の南海支隊長、小田健作少将が現地で帰結し戻らぬ人となったことに衝撃を受けた。「地獄の戦線の開幕を彩る悲壮なプロローグだった」と書いている。輸送先がブナからラエ等に変わった。第十八号作戦が発動されて成果を挙げ、吉原参謀長はウェワク(ニ十一師と四十一師の司令部がある)と、マダンの視察に出かけた。

 

マダンへの上陸は敵襲で資材を失い、参謀長が着陸した飛行場では、滑走路などに生えている雑草を素手でむしっているのを見た。この基地から第五師団第三大隊の高橋部隊が、ラエに向けて徒歩で行軍した話はもう書きました。当人たちには苦難の道のりだったが、到着したラエ・サラモアでは、五十一師にとって孤立感をやわらげてくれたものであったらしい。

 

 

(つづく)

 

 

 

長閑な正月を迎えました。 (2021年1月1日撮影)

 

 

元旦、雲一つない空の写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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