カマキリ

 

 

前々回の資料、長谷川英夫著「或る軍医の手記」によると、長谷川軍医は第一次輸送で駆逐艦「秋雲」に、エスペランスで乗船し、ショートランドに上陸した。高熱を発するなど体調がすぐれず、このあとラバウル、フィリピン、台湾と後送され、高雄の陸軍病院に入院し、宇品に戻った。前回の緑川船員と、どこかですれ違っているかもしれない。

 

高雄で入院中の昭和十八年(1943年)6月9日、軍医は新聞か何かに載っていた佐藤春夫の「ガダルカナァルの英霊を歌へる歌」という詩を読み、思うところあって書き留めた。もうこの頃には「餓島」の実態は、ある程度、国内でも知られていたらしい。佐藤春夫は、小学生のころから「秋刀魚の歌」で、その名を知っております。好きな魚だが今年は不漁らしい。

 

 

この戦争の詩は「奉公詩集」に収められ、戦時中に発表されたとのことで、戦後の佐藤はいかにも軍事色の強いこの作品に触れるのを避けていたらしい。一方、長谷川軍医は、この詩がガダルカナルの「鬼哭愁愁たる」ありさまを最もよくあらわしていると思った。

 

かなりリアルで詳しく、長い詩なので全部転載するのはあきらめるが、例えば「一兵を追うに一機を以てす」とか、「機械力を挙げて わが鉄石の心を撃たんとす」などとある。軍医はこれを読んで丸山道の惨状を思い起こしているが、私は妙なことろに引っかかった。

 

草根と姿醜き異虫とを食べても

意気は益々旺なり

半島義勇兵 高砂族部隊

マタニオウ河畔 アウステン山麓の地

 

 

いすれも既に触れたことではあるのだが、改めて、「高砂族部隊」は戦史叢書にも、海軍の築城隊が、バサブアほかニューギニアの密林開削などで連れて行ったことが出ているし、ネットで「ニューギニア 高砂族」と検索したら、びっくりするほどヒットした。遠い昔、アメリカで働いていたころ、台湾の山岳民族出身の娘さんと一緒に働いていたことがある。仕事熱心だった。

 

もう一方の「半島義勇兵」については、平塚柾緒編著「米軍が記録したガダルカナルの戦い」の序盤部分の写真の中に、「ガ島にかぎらず飛行場建設には現地住民も動員された」という説明付きのものに加え、「海軍の設営隊に徴用されてきた朝鮮人たちは、かなり早い時期に集団投降し、米軍の保護下に入っていた」というのもある。

 

 

保護下というのは生かしておくという程度のものらしく、一木支隊の戦死者の埋葬も、彼らが使役されたとも書かれている。写真の顔はわれらと見分けがつかないが、服装がバラバラで上半身裸の男たちもいて、どうも軍人にはみえない。ときどきTVのドキュメンタリーに映る血色の良い「日本軍捕虜」は、たぶん彼らだろうと推測します。

 

この設営隊は軍属だけではなく、同書によると(戦史叢書からの引用とある)、次の三隊からなる。ただし、人員については資料によって差があると補記されている。

 

1) 第十一設営隊 隊長・門前鼎大佐 隊員1350名(うち軍人は約180名)

2) 第十三設営隊 隊長・岡本徳長少佐 隊員1221名(うち軍人は約150名)

3) 第八十四警備隊ガ島派遣隊 隊長・遠藤幸雄大尉 隊員247名(呉三特陸戦隊を含む)

 

 

カメムシ

 

 

ガダルカナルの設営隊や警備隊は、連合軍の太平洋における本格的反抗の第一弾をまともに受けた。このため、その日の様子、反撃や逃避は戦史に残っているのだが、いま取り扱っている撤退の話題には、具体的な話題が出てこない。亀井宏「ガダルカナル戦記」では、数名の十一設と十三設の生還者が証言しているが、記録は米軍の上陸時にほぼ絞られている。

 

「静岡連隊(歩兵第230連隊)のガ島戦」に、「ガ島の飛行場を造った軍属(ひと)の話」という章がある。両設営隊の大部は工員で、小銃・拳銃を所持していた者は併せて約280名のみ。強力な火器もないまま早朝の急襲を受けて、てんでに逃げた人たちも多く、戦闘能力は低い。のちに、クルツ岬の西側に集まって「海軍本部」を形成する。

 

 

別の生き残りの証言もあり、語り手は海軍第十一設営隊の軍属、小沢麻一氏。ずっと前に設営時の証言を取り上げました。彼は鳶職。滑走路等の土木工事ではなく、周辺施設の建築工事に従事しています。他の証言者と一致している経緯としては、彼らも一木支隊を追ってミッドウェー諸島に上陸する計画だったものの頓挫し、そのままダガルカナルに送られてきた。

 

ルンガ川に自動車が通れる橋を架けた。格納庫を11棟、建てた。建築用の木材は本土から輸送したそうです。滑走路は先着していた十三設が造営を進めており、格納庫もあとは屋根を葺くだけとなり、8月6日に概成のお祝いをやって、ガダルカナルでは後にも先にも一度だけの酒が出た。翌朝、艦砲射撃と海兵隊の舟艇が来た。

 

 

逃げるしかなく、彼も仲間もナタだけ持ってジャングルに入ったが、米兵に見つかり自動小銃を突き付けられ、「ここを撃て」と胸を指したが、タバコと虎屋の羊羹が出てきて、やむなく捕虜になった。8月の終わりごろかと思うと語っている。なお、門前・岡本の両隊長は、第一次ソロモン海戦に呼応して陸戦を仕掛けたが集中放火を浴び、しばし海軍本部の強化に徹する。

 

もう一人、詳細な日記をつけていた貴重な証人の手記が、雑誌「丸」別冊「地獄の戦場 ガダルカナル」にある。こちらは軍人で、当時第十一設営隊信号員・海軍上等兵曹の山宮八州男氏著「海軍第十一設営隊『戦闘日誌』」。読めば敵上陸の前に空襲もしばしば受けているし、信号員の彼は敵潜の接触も感知している。しかし日本軍はニューギニアに夢中だった。

 

 

途中経過は残念ですが詳細を省きます。彼は海軍本部の東にある山上の見張所に詰めた。一木支隊と川口支隊の失敗を知った。栄養失調と熱帯病が蔓延る。そして日誌の紙が尽きてしまい日付が入っていないが、「本部情報によれば、第十一設営隊の順次内地送還の発令があり、負傷兵や病人の順序で後送されることになった」。

 

駆逐艦や潜水艦を待つため、カミンボやタサファロングに移動することになった。糧秣既になく拾い食いの行軍となり、その途中で正月を迎えた記憶があるというから、ケ号作戦より少し前の収容だったようです。彼の部隊で後送されたのは70~80人ぐらいかとある。もっとも「軍関係」という但し書きがあるので、軍属は含まれていない数ではなかろうか。

 

 

ようやく潜水艦に乗れたのは、「昭和十八年一月十七日~十八日ごろ」とのことで、おそらく鼠輸送が中断した後も、毎日のようにガダルカナルに補給に向かっていたという潜水艦のどれかに帰路、拾ってもらったのはあるまいか。ショーランド経由、ラバウルに着いて入院した。この混乱ぶりでは、宮崎参謀長のリストに設営隊が出てこないのも無理はないか。

 

なお念のため、輸送計画上は、設営隊も第一次のリストに入っています。陸軍の戦史叢書に、記載箇所が別々になっているので分かりにくいが、1月23日に第十七軍が編成した「第三海岸防備隊」に、海軍の第十一・第十三設営隊が含まれており、1月27日の第一次輸送乗船計画の軍命令に、「第三海岸防備隊」がカミンボ組に入っています。

 

 

(おわり)

 

 

 

両者の立ち合い  (2020年8月4日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.