夕暮れの散歩道にて

 

 

本稿の下書きは、8月15日に書いています。8月は終戦の他にも、6日に広島、9日に長崎、さらに私にとっては2日にテニアンの戦いの集結、7日にガダルカナルやツラギへの連合軍上陸。いずれも月の前半で、15日が終わると報道がぐっと減るのは、愉快な番組や記事ではない以上、仕方がないのだろうが、このブログはそういうわけにもいかない。

 

次に掲げる表は、軍事史学会編「宮崎周一中将日誌」(錦正社)に収録された「残骸録」(ガダルカナル関連の章)に載っているもので、おそらく撤退後にブーゲンビル島あたりで、宮崎参謀長らが取りまとめたものだと思う。陸海の戦史叢書には、これを基に見やすく編集された表がありますので、それはまたその時がきたら載せます。

 

 

 

 

戦史叢書も触れているように、数字の合計が合わなかったり、数値が抜けていたりする所(例えば、海軍部隊の上陸人数)もあります。ともあれ概数で示すと、上陸したのが約3万人、撤収されたのが約1万人、死亡・行方不明が約2万人という、事態の概要は把握できます。さて、今回は人数の話ではなくて、この表に何か所か出て来る「船員」と「軍属」についてです。

 

ここでの「船員」は主に輸送船の船員で、本来は軍属に含まれているはずとの理解です。また、縦の列でいうと「船舶部隊」の所属です。それ以外の軍属というと、ぱっと思い浮かぶのはルンガ飛行場を造った海軍の設営隊員で、こちらは次回の話題といたします。それにしても表中の「軍属」三十六名は「船員」より少ないので、別建てでしょうか。詳細不明です。

 

 

ガダルカナルに上陸した船員に関する資料は、何度か参照しました伊東信著「ガダルカナルの夜光虫」のみが手元にあります。神戸に関連する資料館があるとのことですが、まだお邪魔できていません。彼ら船員の大半は、徴用されるまで民間海運業の客船などの勤務でした。ですから厨房員などが出てきます。それに加えて、臨時の「徴用組」もいた由。

 

筆者の伊東氏によれば、本書は一見小説仕立てのノンフィクションで、固有名詞の一部(人名、社名、船名)が加工してあるのを除けば、実体験者が書いた詳細な記録を基にしています。昭和十七年(1942年)11月の第二次船団輸送のうち、主人公の緑川は「山雪丸」(実名は「山浦丸」)の三等航海士だった。船は襲撃され、素手で上陸する。

 

 

稲妻(カメラに落ちなくて良かった)

 

 

彼らはこの島で、軍人に或る時は助けられ、ある時は酷い目に遭う。日常は船ごとに集まり、兵站の対象外で、年が明けるころには半数になっていた。そして、撤退については他の船からの噂として伝わってきた。全軍に対し、1月31日までにエスペランスまたはカミンボ附近に集結すべしという命令が出ているという。軍人はすでに行動を開始していると聞いた。

 

これを知ったのが、1月25日に友軍機を見た二日ほど後だったというから、もう時間が無い。場所はコカンボナに近いボハ川附近にいた。いまの体力では、おそろしく遠い。なんとか歩ける5人は、他の仲間6人をどうするか、口にすることもなく歩き出した。途中で一人、脱落。ようやくカミンボにたどり着いたのが2月1日。幸い第一次の乗船日は一日遅れていた。

 

 

夜光虫をかき分けて船が来た。何とか大発に取りついたものの誰何され、船員と分かると、船べりにかけていた手を軍靴で踏まれて海に落ちた。「船員なんか載せている場合じゃない」と言われた。4人そろって乗れず、次の便が来ると聞かされても、もう何も期待できなかった。しかし結局、第二次輸送で脱出することができた。

 

4人のうち一人は、ラバウルでお母さんと呼びながら死んだ。別の一人は、台湾の高雄に病院船で運ばれる途中で死んだ。次回も出て来るが、高雄には明治以降、日本の台湾総督府の病院があり、陸軍病院もあった。やがて本土に戻った緑川は、ガダルカナルで死んだ船員仲間の「戦死公報」が、そろって「戦病死」になっていることを知った。

 

 

上記の図で宮崎参謀長は、船員を戦死・戦傷死に区分しているのだが、どこでねじ曲がったのか。宇品で陸軍に「直訴」したが、第十七軍の報告に基づくものだと突っぱねられた。緑川は自分たちは海で死ぬなら本望だが、泥まみれでみんな死んだ、残念でありますと訴えた。少佐が静かに聴いていた。要望は通り、公報は戦死に改められた。

 

ただし、公報訂正は軍機であり他言は無用と言われ、さらに遺族等には「餓死」という言葉を使ってはならんと口止めされた。戻った職場では、不足し始めた船員の採用係という辛い仕事が待っていた。緑川は島で体験したことについて口を閉ざし、遺族には作り話をした。ようやく話す気になったのは、ボハ川に置いてきた船員の子が訪ねてきたとき。父とそっくりだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

今年も晴れて暑かった  (2020年8月15日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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