今一度、第十七軍の一番長い日、昭和十八年(1943年)1月16日の「宮崎周一中将日誌」の「残骸録」に戻ります。彼が残骸になった日だが、情報量は多い。最初に、前々回から先延ばしにしていた「別紙電報の主旨を予より反復開陳せるも、敢えて之に同意せず。文案を再三読むに及んで、然るべく処置すべきことに同意せらる」についてです。

 

この日誌は章末に関連電報が付録になっているのだが、そこにもこの「別紙」は無い。このため、心当たりの軍命令を陸軍の戦史叢書で参照します。今回の戦史叢書の文章は、小沼高級参謀の回想録が参考文献になっている。

 

 

両師団ほかに、いきなり撤収すると伝えると、悪戦苦闘中の前線は緊張感が抜けて壊乱するかもしれない。それをまた米軍が見つけたら、勢いつけて追撃してくるだろう。ということで、「とりあえず十六日午後一時、次の要旨の軍命令が出された」。ひらがなに換えて、適宜、句読点を入れます。

 

一 敵の攻勢は依然、継続せられつつあり。目下、増援部隊、ガ島に上陸し東進中なり。

二 軍は勇川河畔以東において、敵の攻勢を阻止せんとす。

三 第三十八師団は第二師団に連携し、勇川河畔以東において、敵の攻撃を阻止すべし。

  矢野大隊(歩兵一中隊欠)を増加配属す。

四 第二師団は敵の進出状況に即応し、勇川河畔以東において、敵の攻撃を阻止すべし。

  矢野大隊(先見中隊)を増加配属す。

五 爾余の諸隊は現任務を続行すべし。

 

 

撤退も後退も撤収も、一言とて無い。このままの文章だけでは、そう簡単に百武軍司令官も決裁するまい。おそらく口頭による追加説明として、上記の壊乱の懸念と、電報とは別に使者を出すことなどを伝えて、了解を得たのではないかと思う。これは実際に発電されており、これを受けて第三十八師団が、矢野大隊情報などを含めて出した師団命令も載っている。

 

戦史叢書には、1月16日の段階で軍司令部が、独立山砲第十連隊(北山部隊)が12日に全滅したものと判断したと書いているのだが、佐野師団長命令は、北山部隊が依然健闘中であると示したうえで、同部隊に「転進」を命じ、師団右翼の守備につけとあるから、軍と師団の連絡は殆んどなくなっていると考えてよい。ちなみに現実には、14日に前線から後退している。

 

 

1月16日の参謀長日誌に戻ると、まず、この日に矢野大隊総員約七百名が、「勇躍タサファロングを通過して前線に進む」と書いている。上記の両師団への配分も載っている。次に、小沼高級参謀を第三十八、第二両師団に派遣し、「軍の企図に透徹せしむ」とある。高級参謀は日没後に出発した。もう一つ、参謀長日誌には海軍の航空隊の話題もある。

 

十四、十五日以来、我が海軍陸攻隊二、三機は数次にわたり、ガ島飛行場を攻撃し、友軍の士気奮う。実に待望久しき攻撃なる哉。

 

 

友軍機が来ないと井本参謀を困らせた兵は、これを見たろうか。この件は前にも引用しましたが、海軍の戦史叢書にも載っている。陸海軍中央協定にも載っていた、航空撃滅戦の開始。いわく、「陸攻によるガ島夜間攻撃は、十四日(五機)、十五日(四機)...」と始まり、「その都度数か所の炎上を報じた」。

 

 

 

「筆者が交渉を持った印象を率直に言わせてもらえば、小沼参謀という人も激しい気性の持ち主である」と、亀井宏「ガダルカナル戦記」にある。「も」というと、他にもいるようだが、その直前に出てくる人名は宮崎参謀長。上掲の宮崎参謀長の日誌にある高級参謀の両師団への派遣について、小沼氏の証言が同書にある。1月16日、夜は雨が降った。

 

「それで私が買って出て、師団の方へ、連絡に行きましょう、といいました」と始まる。先に第三十八師団に行くことにした。理由は先に第二師団が動くと、敵に発見されたとき、撤退路の大海岸道が混乱する。それに後から来た三十八師のほうが、まだしも元気で説得に時間を要す。こちらが撤退に応じれば、そのあとの二師の説得も容易になるだろう。

 

 

まだある。次は人間関係だ。旧日本軍は、あちこちで人間関係を頼って仕事を進めている。どの国も、今の会社もみなそうなのかもしれないが、これは諸刃の剣で、なるほど効率的かもしれないが、情に頼ると組織のルールを逸脱しやすい。特に、出身地が兵と異なる将士は、しばしば同期や昔の上官などに頼っておりますね。

 

本件の場合、第三十八師団長佐野中将は、小沼高級参謀にとって陸大時代の教官であったそうだ。どうしても駄目だと言われたら、「自分もいっしょにそこにとどまって最後まで戦う覚悟を抱いて三十八師団へ行ったんです」。だが、いきなり師団長に会う勇気がわかなかったらしい。文書の軍命令は出ていないのだから、口頭で説得しないとならない。

 

 

そこで「親泊というじつに優秀ないい作戦参謀があそこにおったもんだから」、彼を外に呼び出して一切を伝え、忍び難きを忍び、師団長に取り次いでくれないかと頼んだ。親泊参謀長は多くを言わず、よしわかったと言って師団長に会いにゆき、やがて小沼参謀は師団司令部に招き入れられた。

 

佐野師団長は、「そうか、軍司令官がその気であられるのであれば、命令に従おう。そのかわり成功するかどうかわからんが」と言ってくれた。その足で第二師団にも説得に行き、軍司令部に戻った。第二師団が既に後退命令を出していることや、第三十八師団が「玉砕攻撃」と決意していたことには触れていない。ここまで来れば、軍に伝える必要もないか。

 

 

次の話は、この証言にも、戦史叢書にも載っている。小沼高級参謀は前線の雰囲気も分からぬまま、この使いが無事済むとは思えず、断られたら司令部には戻らないと杉之尾参謀に伝え、「目をつぶっていてくれ」と頼んだ。それまでつけていた日記も杉之尾後輩に託したと戦史叢書は書いている。亀井書によると、本当に「燃やしちゃったですよ」という顛末になった。

 

こうして翌17日には、第十七軍と両師団の司令部は、お互い撤退作戦で合意したことを知り、その準備に入る。もっとも、この説得工作は、そう簡単に済んだものでもないらしく、第三十八師団にいた黒崎参謀が亀井書で語るところ、「小沼参謀が撤退命令を伝えに来たとき、われわれ参謀は反対したんですよ」。遅すぎる、将兵は無駄死にだ。では彼の意見を聴こう。

 

 

(つづく)

 

 

 

子供のころビーフを食べることが出来た、数少ない機会であった缶詰。

この程ついに模様替えし、巻取り式を改め、フタがプルトップになった。

コロナ・ウイルスで世界が不況に陥れば、日本が一番困るのは食料です。

糧秣の備蓄のため買ったら在庫一斉か、古いタイプの貴重品が来た。

(2020年4月17日撮影)

 

 

 

 

 

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