今回のみは本ブログのタイトルのうち、いつもの「伯父の戦争」は一休みして、「祖父の人生」をテーマにします。以前、父方も母方も自宅を空襲で焼かれたのに、どうやって戦後の食糧難や、酷いインフレの時代を生き延びたのだろうかと書きました。今さら調べても分からないとは思いますが、想像します。本年正月早々の記事と内容が重複しますがご容赦ください。

 

母方の祖父は警察官だったと聞いています。静岡の空襲の夜、祖母と母と叔母の三人で逃げたとき、祖父が何をしていたかというと、鷹匠町の寄り合いに出ていたそうで、家族とはぐれたらしい。町の寄り合いに出ているようでは私服刑事ではなさそうだ。地元のお巡りさんだったのだろう。なお、先日亡くなった叔父とは、この叔母(私の母の妹)の夫です。

 

 

警官なら戦後もそのまま職は続けられたかもしれないが、他方で経営していた木工所も焼かれて、大工のほとんどが戦死した父方の祖父は、何をしていたのだろう。戦後一時期、私の父を東京の親戚に預けていたそうなので、生活が苦しかったのではないかとも思う。もっとも大工なのだから、復興期に注文はそれなりにあったのか。

 

もう一つの収入源があったのを母が覚えている。戦死した伯父の恩給です。これは私が8歳のときに祖父が他界するまで支給されていたと母の記憶にあるし、また、3年ほど前に伯父の記録を探していたら、恩給支給のための調査票が県庁に残っていて、コピーを頂戴することができた。

 

 

一般に、恩給は戦中の民事法や軍事法の規定により支給される関係上、すぐに受給できるものではなく、何年か後に始まるものであったと、どこかで聞いた。伯父の記録もそうなっていて、戦死後、何年か後の調査になっており、支給開始はさらにあと。受給権者は祖父。

 

この調査票がまた悩ましくて、伯父の戦死地がテニアンではなく、サイパンになっている。伯父は歩兵第百十八連隊の陸軍伍長だったのだが、この連隊は前に何回か書いたように、輸送船団が次々沈められて、連隊長が戦死。救助されたのは約500名。それも重油の海に放り出されたダメージに加えて、兵器と糧秣が全て沈んでしまった。

 

 

つまり急な作戦には殆んど使えなかったはずで、しかも、最初の目的地はどうやら泊地があるサイパン島だったらしいのだが、陸軍と海軍の資料がネットでそれぞれ一つずつ見つかり、それらにはいずれも第一大隊と第二大隊がサイパンに着陣、伯父の第三大隊は隣のテニアンに渡ったとある。

 

このころのマリアナは迫りくるスプルーアンスの艦隊を迎えつつあり、混乱の中、実際きれいに大隊ごとの配置ができたかどうかさえ覚束ない。ただし、戦史叢書にはサイパンの連隊としてしか登場せず、大半のネット情報も、それに倣っている。これでは困る。

 

 

戸籍には、「マリヤナ島ニテ戦死」と書いてあり、なるほど間違いはないが、あとは分からんという記載ぶりです。戦死日は先述のように、グアムとテニアンが玉砕したという大本営の発表日になっているし、県庁にあった陸軍の複数の記録に、伯父は第三大隊に所属し、「テニヤン」で戦死したと書いてあるから、それを信用するほかない。

 

このため、恩給の調書にあるサイパンで戦死という記載は、戦後何年か経って、上記のような混み入った事情を知らない人が、何かの記録でサイパンにて連隊旗が奉焼された部隊の人という事実のみを以って、戦死地を選んだのかもしれない。たぶん恩給の金額等に違いはないはずだ。大体ほとんどみんな行方不明なのだから、根詰めて調べても私と同じ目に遭う。

 

 

この調子では、私がまだ見つけていない同連隊の記録を探し出したとしても、戦死地・戦死日の特定は期待できない。その現場を見た人がいて、まだ生きていて私が会えて話を聞けたら分かるだろうという、途方もない偶然でも起きないと判明しない。テニアンでは大半の将官・士官の戦死の様子さえ分かっていない。

 

それでも恩給は出たのだから、ありがたい。私はここでも伯父の恩を受けている。仮にもっと生活が苦しかったとしたら、父と母の結婚も、もっと遅れていたかもしれない。私は生まれる前から、綱渡りの人生が始まっているようなものだ。ともあれ当時の納税者とお役所の事務仕事に御礼申し上げます。

 

 

私が生まれ育った家は、木造平屋建ての小さな借家で、暖房は小さなコタツ一つ、冷房は祖父母用の扇風機一台。木工業の祖父の出番は、自宅内でも至る所にあり、台所を増改築し、土間だった風呂場に木の板を張り、私のために屋根より高い鯉のぼりの竿を太い竹で立て、左官もできたから石とコンクリで、大きな金魚鉢まで作ってもらった。

 

おそらく、あの磊落な性格からして、大家さんには無断で作業したものと思うが、物件が改築されていったのだから、文句はあるまい。もっとも、我が家が引っ越してから、まもなく白蟻に食い尽くされて倒れたと聞いている。今では誰が住んでいるのか知らないが、きれいな住宅が立っています。

 

 

我が家が引っ越したのは、私が小学校5年生に進学したばかりのころで、当時はサラリーマンの念願だった、鉄骨の通ったマイホームが建ったからだが、これは住宅ローンだけでは無理だったはずです。父が病弱で、失業や休業を繰り返しており、祖父と母が家計補助のため働いていた。

 

状況が変わったのは、仕事帰りに自転車で走っていた祖父が、よそ見運転でバックしてきたトラックにはねられて、交通事故死し、保険金が入ってきたからだと両親から何度も聞いた。「じいさんの建てた家」と呼ばれた新しい実家は、おそらく今のなんとかホームより、ずっと頑丈で築五十年を超えた今も健在。私が大人になってからエアコンと電子レンジが入った。

 

 

その実家に帰省して、今回のブログの下書きを書いています。祖父は夕方に事故に遭い、半日もったが翌日の午前中に亡くなりました。私は小学校に登校していたのだが、校長先生がクラスに迎えに来て、祖父の死を知った。向かいに住んでいたタクシー運転手のおじさんが、バイクで拾いに来てくれました。

 

不幸中の幸いは、轢かれたのではなく、遅いスピードで倒されて頭か胸を打ったのが原因だったそうで、死顔が綺麗だったのを今も覚えている。それでも、私の人生で一番楽しかった祖父との暮らしは突然、終わってしまい、引っ越したから幼なじみたちとも離れ、私は閉じこもりがちの変な子になって、現在に至る。

 

 

葬式の日、祖父をはねた運転手は、小僧がみても一目で分かりました。ずっとお寺の畳に両手をついたまま土下座の姿勢で動かず、とうとう顔を見ずに終わりました。よほど申し訳ないんだなと子供心に感じたものです。今ではそれに加えて思うに、過失割合100%の死亡事故ですから、免許取消、懲戒解雇、もしかしたら交通刑務所。露頭に迷う。

 

ちなみに父方の祖母は、当方が幼稚園児のころ、前の日まで元気だったのに、夜中の心臓発作で他界した。祖父母とも今の私と同じ年代。こんに寿命が伸びたのも、医学・薬学の向上、栄養の量とバランスの改善、年寄りの大敵だった暑さ寒さを防ぐ冷暖房のおかげだと思います。これら全てを失った戦場に、ではまた戻ります。

 

 

(おわり)

 

 

毎朝毎晩この山を見ながら育てば

立派な人になると静岡の校歌はいう

(2020年2月9日撮影)

 

 

 

 

 

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