小学校の中学年のころ、TVで映画「トラ・トラ・トラ!」を観たことは前にも書きました。確か放映が終わったあとの解説がきっかけだったと思うのだが、源田実氏が本作の撮影現場に顔を出したという話題が出たとき、両親が不機嫌になったのを今もよく覚えている。

 

理由は二つで、今もって私にはその真偽のほどが分からないままだが、一つは神風特攻に関わった人であること、もう一つは空襲を指揮した米軍人に勲章を渡したというものだった。もちろん父母は軍史研究をしていたわけではなくて、そういうふうに世論ができあがっていた。

 

 

更にいえば彼に限らず、一緒くたに、軍人は悪者だったという雰囲気は確かにあった。なんせ70年安保のころです。今にして思えば、帰還兵はさぞかし肩身が狭かったと思う。この作品に限らず、多くの戦争映画がこのころ作られているのは、単に娯楽のためだけではないはずだ。

 

とはいえ、両親のような考え方が、反日だの自虐だのと言いたい者は、いっぺん自宅を空襲で焼かれて逃げてから、もの申すよう願いたい。父方も母方も、戦中戦後をどうやって生き延びたのか、今なお不思議です。イモとカボチャばっかり食って飽きたという話は聞きましたが。わが叔父が赤ん坊のうちに死んだ原因を、祖父母は語らなかった。

 

 

先日、レンタルで20年ぶりに米国映画「13 デイズ」を観ました。キューバ危機が主題で、終幕に出てくる、「人が招いたトラブルならば、人の手で解決できる」といった趣旨のケネディ大統領のスピーチが印象的。この作品の中に字幕で、「レメイ空軍幕僚総長」と翻訳されている好戦的な人物が出てくる。

 

確かに「LeMay」は二番目のシラブルにアクセントが来るので、レメイと聞こえなくもない。しかしながら、字幕の担当もその他関係者も、通常この男の名はカタカナで、カーチス・ルメイと呼ばれ続けていたことを知らなかったか、故意に避けたらしい。受勲者でございますから。

 

 

昨年、長岡に行ったとき、奇妙な話を聞きました。長岡が空襲に遭ったのは、昭和二十年(1945年)8月1日で、このときはルメイに昇進の内定があり、その祝いの打ち上げ花火のような感覚で、最後の空襲をやらかしたというお話しでした。

 

実際、ネットで「8月1日 空襲」(または、日付を越えた2日)で検索すると、全国各地の地方中核都市の名が出てくる。かつて住んでいた八王子も燃えた。長岡はさらに、のち長崎に落とされたプルトニウム爆弾の外殻に、通常の爆薬を詰めた試作品を落とされた。これもルメイの判断だろう。この男は、このころテニアン島にいた。

 

 

現地での雑談でお聞きしたところでは、長岡はそれら被災地の北端にあたり、一説にはB29の航行距離の限界であったためであり、他説によれば地元出身の山本五十六への意趣返しがあったという噂です。私にはわからない。これまで幸い、こんな極悪非道は、我が人生とは無縁です。

 

長岡の空襲計画MAP

 

 

いつもながら、日本語版のウィキペディアは、アメリカに対するご配慮と、日本の政治家に対する尊敬の念にあふれており、ルメイの直掩にも忙しい。こういう時よく使われる論法は、軍人は上に反論できないから止むを得ないとか、戦時の行為を事後法で裁いてはいけないなどとパル判事のようなことを真似て言い出す。頭が高い。

 

私は法律家ではなく、歴史は裁判ではない。一平民として申し上ぐるところ、ルメイが直接、指揮した作戦で戦没した民間人の数は、おそらく世界各地で強引に処刑された日本のBC級戦犯の個々の罪状にある犠牲者の総数より、はるかに多かったはずだ。マッカーサーとルメイは核戦争を起こそうとした。選挙で落ちるはずです。

 

 

ガダルカナルの戦いに戻る。源田参謀が一時期、ラバウルで勤務したことは前にも触れたが、重複するところも含めて、源田実著「海軍航空隊始末記」を参照します。昭和三十七年の発行。彼は空母「瑞鶴」の飛行長として第二次ソロモン海戦に出たが、その約一か月後の9月下旬、陸に上がって「臨時第十一航空艦隊参謀」としてラバウルに赴任した。

 

この異動について当人は、「これはどうも中央当局の意向から出たものではなく、山本長官の考えに源を発したもののようであった」と書いている。連合艦隊はトラックから本土に戻らす、司令官はここが決戦海面と判断したのだろう。しかし、源田参謀はラバウル着任後、間もなくマラリアを発症し、ラバウルの病院に二十日ばかり入院した。ベッドが湿っていて困った。

 

 

11月中旬に、ラバウルでは何の寄与もできず「申し訳ないことであった」が、源田参謀に本土への帰還命令が出た。衰えた体を引きずって、「軍令部一課に着任したが、作戦課長富岡大佐は、私の健康を心配したためであろう、しばらく静養するよう勧められ」、十日ほど別府で温泉療養。

 

一般に、軍人は出世してから戦争が始まった方が、待遇がよろしい。そして、「十一月下旬、軍令部に帰って最初に直面した重要問題は、ガ島問題である。(中略) 大本営の両作戦部は、昭和十七年の暮れも迫った十二月末、数日にわたる図上研究を行った」。彼はこの研究に、航空作戦の担当として参加した(また後に、福留部長とともにラバウルに出張する)。

 

なぜかクリスマスのときだけ緑(もみの木の真似?)

 

 

この「陸海軍合同研究」は、陸軍の戦史叢書によると、真田課長が方針転換について海軍の同意を得た、12月26日の懇親会の翌27日から29日までの3日間、連日連夜行われた。場所は陸海軍集合所というところだそうで、真田・黒島両氏のヘボ碁もここでやったのだろうか。

 

研究員は四名。陸軍からはラバウルより戻ったばかりの瀬島少佐と首藤少佐。海軍はこれもラバウル出張から戻ったばかりの山本祐二中佐(駆逐艦乗務の経験豊富)と、源田実中佐。私の知る限り、彼らはガダルカナルには渡っていない。とはいえ、辻参謀を交えては、まとまる話もまとまるまい。この研究における検討課題や結論については、次回以降といたします。

 

 

最後に、ガダルカナルには直接関連のないエピソードだが、亀井宏氏が「ミッドウェー戦記」の取材のため、源田実参議院議員に電話を架けたときのやり取りが可笑しい。議員はお忙しかろうと自宅に架電したところ、先生は無造作に電話に出たそうで、ただし来客中だったらしく、「時間はどのくらいですか」と訊いてきた。

 

亀井さんが、「お時間はとらせません。ミッドウェーについておうかがいしたいのですが」と伝えると、源田元参謀は意外だったか、やや調子はずれの声で、「ミッドウェー?」と反応し、さらに「そんなことをきみぃ、簡単に電話なんかで話せるわけがないじゃないか」と返してきた。

 

 

初弾が外れ、言われてみれば御もっともと、うろたえた亀井氏は少し話題をはずして、「それではです、山本五十六元帥について忌憚のないご意見をお聞かせ願いたいのですが」と続けている。「忌憚のないといったって、それも一言じゃ言えんな」。心理学でいう「オープン・クエスチョン」は奏功しなかった。

 

その次の質問は、もう少し具体的にした。「偉い人ですか」。「そりゃあ、偉かったですよ。あんなえらい人はめったに出るものじゃない。その偉さについて語るにも時間が要るのです」。議員会館で会うことになったが、亀井宏は別件で行けず代理人が訪問、源田実も途中で次の用件が入り、山本五十六の偉さについては、ついに聞きそびれてしまった。惜しいことです。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

いずれも谷中の梅  (2020年2月4日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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