久しぶりに辻政信著「ガダルカナル」を参照します。戦史資料としては役立たずどころか有害図書なのだが、この男がどういう人物だったかを考える一助にはなる。場面は前出のブーゲンビル島。辻がガダルカナルから戻り、第三十八団の司令部とショートランドで会った。
第三十八師団司令部は出発準備を終えている。師団長佐野忠義中将は陸大当時の教官であり、作戦主任親泊参謀も旧知の友人であった。
これだけ。彼は上役と親しいのが自慢らしい。もっとも、親泊参謀は陸士の一期下。辻政信がこの本を書いたころ、親泊はこの世にいないのだが、それには触れていない。なお、この前後の年代が、二・二六事件の首謀者を出す。祖父と同世代なのだ。何が起きたのだろう。
同じ師団の幕僚に、細川友直少佐と黒崎貞明少佐がいたことは、先日の遺骨収集の回で触れました。黒崎参謀は「恋闕」で、「親泊さん」のことを「好人物」と書いている。玉音放送を聞き陸軍省に戻ると親泊さんが泣いていた。黙って握手をし、それが今生の別れとなった。
澤地久枝著「自決 こころの法廷」は、この親泊朝省(おやどまり・ちょうせい)が主人公。風変わりな姓は、琉球王朝尚家の流れという名門で、父上は首里で校長先生だった。この澤地書の単行本は洒落た装丁で、表紙がミンサー織になっている。
陸士の記録では、兵種別・成績順に並んでいる第三十七期の名簿に、歩兵科の首席が井本熊男、騎兵科の首席が親泊朝省。井本によると陸幼時代の親泊は「小柄な美少年」、街を歩けば娘たちが振り返り、しかし、運動神経が鈍かった。姪たちからは、「兵隊おじさん」と呼ばれていた。以下、亀井宏「ガダルカナル戦記」より。
親泊参謀はのち大本営報道班長をつとめ、武ばった風をみせない人柄が外部の人間に好かれたが、終戦時、妻子を道連れに自刃した。
澤地久枝は終戦時に満州にいた「引き上げ組」。彼女の叔父(母の弟)の一家が朝鮮半島にいたが、親泊報道班長が担当したかもしれない玉音放送の数日後に、一家そろって命を絶った。そんな過去が、この本を書くきっかけになったのかもしれない。それにその叔父と親泊は、かつて同じ第十九師団にいたそうだ。
澤地書によると、ガダルカナルの戦いの惨状が国民にある程度、伝わったのは昭和十八年に陸軍省が開いた記者会見だったらしい。惨状といっても陸軍の主催だから、見出しが「密林に詔勅奉唱」などになった。このとき発表者になった○○中佐が親泊参謀だったらしい。帰国時39歳だった親泊中佐は、すべての歯が抜け落ちていた。やや遅めに上陸した士官がこれだ。
沖縄の海と空
第三十八師団が新設されたのは、昭和十四年(1939年)。うちの伯父が第一回の出征で北支に行った年、同師団は南支に送られ、親泊朝省は情報参謀として、日付は不明だが少し後に赴任したらしい。大酒飲みで、当時司令部付だった「静岡連隊のガ島戦」の編著者、瀧利郎暗号手によると、「よるどまり・あさがえり」というあだ名がついたらしい。
このあとは、何度か書いたように、香港攻略戦、ジャワ島上陸、そしてニューギニアに呼ばれ、ラバウルに着いた途端に、ガダルカナルに変更になった。蘭印から南洋に向かう途中、台湾にいる弟を訪ね、「これ以上、戦争を拡大しては駄目だ」と言い残した。
ガダルカナルでの出来事は追々、この本からも拾い続けるが、忘れないうちに一つだけ。第三十八師団の司令部が上陸した昭和十七年十一月上旬のこと。彼らは夜陰に海上の砲声を聞き、翌朝、親泊・黒崎の両参謀は九〇三高地に登った。
なぜかグルグルと一点を回っていた日本戦艦が、沈みかけながらも主砲で敵機を攻撃しているのを見た。やがて力尽き姿を消していくとき、一同脱帽して「比叡」の最後を見たと黒崎貞明が書いている。このすぐ後の第三十八師団主力の船団輸送の破綻は、彼らにとって大変な衝撃になる。
命日は降伏文書調印の翌日、昭和二十年九月三日。これだけでも分かるように親泊は覚悟の死であり、しかし親しい人に妻子を頼むと言っていたそうなのだが、結果は上述のようになった。一家全員がいなくなっただけに、直前の様子はよくわからないらしい。
澤地は親泊が、先に逝った阿南陸相に敬服していたことや、そして、確かにこれは大きいと思うのだが、夫妻の出身地である沖縄が酷烈な戦場になりながら、何もできなかったことに言及している。沖縄には七、八回ほど行ったが、離島に泊まって観光ばかり。次はどうしよう。
(おわり)
宮古島のボラ (2014年9月11日撮影)
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