昭和十七年(1942年)11月2日、ひとりの彫刻家がガダルカナルで戦死した。高橋英吉(たかはしえいきち)一等兵。宮城県石巻の出身。当時の所属は、歩兵第四連隊(仙台)の第二大隊第二機関銃中隊。
彼の名を知ったのは、いずれも同じころ見たように思うが、「南海の墓標」(河北新報社)およびブログ先輩勇一三○二様の「ガダルカナル Guadalacnal」です。後者より、2ページを紹介します。上の①がおもに作品、下の②が主に軍歴。
① https://ameblo.jp/guadalcanal/entry-11885566077.html
② https://ameblo.jp/guadalcanal/entry-11888615265.html
(追加) https://ameblo.jp/guadalcanal/entry-12508283709.html
私の散歩コースにある東京美術学校(今の東京芸大)の卒業というから、その頃は拙宅のそばにお住まいだったかもしれない。「南海の墓標」も個人の記事としては異例の長さで、彼を紹介している。最初と最後を引用します(他は上記サイトに重複するものが多いので省略)。
石巻市の生んだ天才彫刻家高橋英吉兵長も十一月二日、小川上流の戦闘で、死の瞬間まで射ちつづけた重機関銃に身をうつぶせたまま悲壮な最期を遂げとげた。(中略) 数学、英語を好まず、授業時間中はノートに軍艦を描き、鉛筆やチョークに少女やガマを彫り刻んだ。
戦後初めて開かれた仁科展に高橋兵長の遺作「母恋観音」が特別出品された。仁科の盟友は高橋兵長のため特に一室を設け、作品のかたわらに個人の遺影を飾った。訪れるものひとしく霊前にぬかずき、香華をたむけてその冥福を心から祈った。「母恋観音」の側には高橋兵長がガダルカナルで彫り刻んだという不動明王の木彫と、これを作ったノミ三本、絵葉書大のスケッチ約二百枚が置かれてあった。
階級が兵長となっているのは、戦死後の特進なのだろうか? 同書の巻末にある名簿では、一等兵になっている。上記サイトでご本人の写真をみても作品をみても、この人の持つべきものはマシンガンではなくて、彫刻刀だ。
ネットには、けっこう彼に関する記事が多い。理由の一つは、高橋作品が置かれていた石巻文化センターが津波被害に遭ったからだ。現在センターは閉鎖中だが、幸い作品も残り(全部かどうか知らないが)、まもなく再開するらしい。
無粋な話題に移るが、戦闘経過について。第四連隊第二大隊は、前述のように九月総攻撃のとき川口支隊の青葉大隊だった。飛行場南方に迂回し、二晩の夜襲。十月も変わらない。戦史叢書には、第二機関銃中隊の名がない。だが、前回の芳賀小平氏の手記に出てくる。
9月14日の第二回夜襲において、主力の左第一線は歩兵第一二四連隊の第一大隊、右第一線が同第三大隊、予備が青葉大隊。その青葉大隊は、左第一線が第五中隊、右が第七中隊、予備が第六中隊および第二機関銃中隊だった。
またも、左・右・予備の逆三角形のフラクタクル構造だ。プロシャの真似か何かだろうか。ともあれ、この予備隊中の予備隊が最も深くまで進入し、前回の辻政信参謀に、「君だけだ、飛行場に入ったと聞いたのは。この功績は俺も認めるよ」と評価された。その中に高橋一等兵もいたに違いない。では、次に十月末から十一月初旬にかけて。戦史叢書の地図を拝借します。
ガダルカナル島北岸の飛行場西側です。河口は右(東)から順に、マタニカウ川、クルツ岬を挟んで小川、沖川、勇川と並んでいる。前出の戦死地の「小川」は一般名詞ではなく、この固有名詞の「小川」。高橋一等兵がいたのは、その上流500メートル右岸台地だったと、上記サイトの②にあります。
右側に斜線付き二重線で囲ってあるのが、十月末時点のアメリカ軍占領地。マタニカウ川右岸とネコ高地を巡っている。西に向けて白抜きの矢印で米軍が進行し、十一月四日までには沖川の線まで強圧してきた。
マタニカウ川は、生還者によると深い川で、このため独立戦車第一中隊は、河口にたまった砂洲を渡ったのだが、米軍はどうやって渡河したのかというと、海兵隊のサイトに書いてある。第5師団が新着の第2師団と共に、11月1日、その前夜に自分たちが架けた複数の橋を渡った。写真はその本物、戦場に架けるマタニカウの橋。
日本側の第四連隊の陣地は、地図の上から順にクルツ岬のすぐ南に「5」、一本橋近くの左岸高地に「7」、その左下の高地に「1」とある。それぞれ、第二大隊の第五中隊、同第七中隊、第一大隊の第一中隊。中熊連隊長が10月29日に命じた布陣です。
各隊、人数が大きく減少しており、食糧も尽きて、しかも飛び飛びの配置。11月1日は反撃して押し返したものの、同2日になって敵は戦車・装甲車に加え、「敵機跳梁」と各資料に出てくるような総力を挙げての侵攻となり、戦史叢書の表現では、「戦力の格差は如何ともし難く、陣地の間隙から逐次進入され、包囲を受けることになった」。
第二機関銃中隊の配置は示されていない。一方、地名からすると、小川上流500メートルというと、地図ではクルツ岬の西側根元から小川にかけて、米軍に包囲されている位置あたりだろう。ちなみに、その左に見える「ⅡTAs」が、この日、敵戦車隊と戦って全滅した独立速射砲第二大隊。このアラモ砦みたいな第五中隊の戦場で、戦死なすったのだろうか。
だいぶ前にここにも書いたように、昨年(2018年)の秋に石巻に行った。海岸近くに日和山という小高い丘がある。頂上からは眼下に、第二師団が上陸訓練をした石巻の浜が見える。その向こうには太平洋が広がっている。左方向に、旧北上川の河口がある。
この鳥居の前にベンチがあったので、しばらく座って下の浜辺の復旧工事を眺めていた。まだ新しい建物がポツポツとある中を重機が走っているような状況で、川の堤防はこれから造るのだと、隣にいた年配の男性が話してくれた。
地元の方ですかと訊いたら、「あの辺に自宅があった」と、工事中の海浜を杖で差す。これはお見舞いをいうべきだと思い、「ではご自宅は、あのとき」と尋ねた私が馬鹿でした。「かあちゃんと一緒に流された」というお返事だった。
石巻文化センターも、おそらく高橋英吉氏の生まれた湊という地名も、その浜にある。きっと彼も日和山に何度も登ったことだろう。古城があったそうで、「おくのほそ道」では芭蕉と曾良も、修学旅行で宮沢賢治も、日和山を訪れている。登ると芸術家になれるかもしれん。
翌日、帰りの電車に乗るため、JR石巻駅前を歩いていたら、金属製の彫刻のレプリカのようなものと説明版があったので、のぞいてみた。好奇心も歩けば棒に当たる。慌てて撮影したので見えづらくてすみません。
高橋英吉は、長女が生まれた途端に赤紙が来たらしい。彼の作品には、海と母がモチーフとなっているものが幾つかある。駅前の「母子像」は、家族の肖像だろうか。本物はもちろん木彫です。
なお、私に声をかけてくださった方は、その前の年だったかにテレビのロケで、羽生結弦が日和山に来たとき、震災の日の話をしたそうだ。言われてみれば、羽生選手は仙台出身です。「羽生は聞きながら泣いてたよ」とのことでした。
(おわり)
石巻駅前にて (2018年11月14日撮影)
亡き母や海見るたびに見るたびに 一茶
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