先日、旧海軍の拠点址の写真を載せました。奄美大島と加計呂麻島の間の水道は、先の大戦時、海軍の泊地でした。写真は、その沿岸で撮影した海上自衛隊の船舶。補給船なので、物騒な武器は見当たらない。地元の方のお話しでは、いきなり潜水艦が浮かび上がってくることがあるとか。
遠い昔、ジャカルタの街を歩いたことがあります。シンガポールやクアラルンプールのように整然とはしておりませんが、バンコクやプノンペンのように雑然ともしておらず、空が広くて明るい町という印象です。現地のガイドさんも、陽気で親切だった。
ジャワ島で船にも乗りました。桟橋で現地のおじさんと、海辺で遊ぶボラを一緒に眺めていたのを覚えています。立ち去る前に彼は、「フレンドリー・フィッシュ」と赤銅色の顔で笑った。インドネシアは、フレンドリーな国という思い出があります。
ジャワ島に上陸する第十六軍が東西に分かれたのは、首都バンドン(現ジャカルタ)を挟撃するためだと前回書きました。もう一つ、あると思います。島の東西に泊地がある。敵味方とも海軍がおります。以下、児島襄「太平洋戦争」を参照。
先述のとおり、ジャワ島は東西に長い島。連合軍の司令部があるバンドンは、かなり西寄りの内陸にあり、西端にはバンタム湾と、バタビアという都市がある。マレー半島に近い。第十六軍の司令部や第二師団は、ここに向かいました。
反対側の東端、バリ島に近い位置に、スラバヤ湾があり、連合軍(蘭、英、米、豪)の戦隊がここを拠点としていた。これが寄せ集めの典型で、ろくに訓練も作戦もしていなかったらしい。
日本海軍と接触して軽微な損害をうけた「スラバヤ沖海戦」(太平洋戦争では初めての艦隊戦)で、早々に戦意を喪失して逃げることになった。その途中で、バンタム湾に向かっていた、第十六軍を護衛中の日本海軍の本隊にぶつかってしまった。「バタビア沖海戦」が始まる。
対する日本側は、後にキスカ脱出作戦を担当する第五戦隊が主力で、旗艦は重巡「那智」。駆逐艦隊には、ガダルカナルで鼠輸送と撤退戦に活躍することになる第二水雷戦隊(田中頼三少将)もいる。
日本の勝利となったが、勢い余ったか、魚雷で味方の船まで沈めてしまい、まことに運悪く、今村均中将も重油の海に放り出された。本土では、今村将軍、何時間も泳いで上陸、と大々的に報道されたそうだが、それを聞いた今村さんは、そんなに泳げるもんかと言ったらしい。
このため、せっかくのジャワ上陸作戦も、当時のフィルムはアナログだから、塩水に漬かって台無しになってしまい、故に第十六軍主力の記録映像は残っていないと、第ニ三○連隊に同行していたカメラマン柳田芙美緒は書いている。
柳田自身は、それまで撮りためていたフィルムを護るため、連隊に「護身用」として配布され、一部捨てられたゴム製の避妊具(コンドームでしょうね)を拾い集めて、フィルムの防水に備えた。彼はジャワ戦のあとで帰国するが、スタジオが静岡の空襲で全焼してしまったと娘さんがTVで語っていたのを覚えている。
ネガも写真も失って、戦後の柳田は、しばらく呆然自失の生活を送っていたらしい。ところが、その娘さんが縁側かどこかから転げ落ちた際、偶然、自宅の敷地に、大きな金属の箱のようなものが埋まっているのが見つかり、中を空けたらフィルムが保存状態も宜しく残っていた。
柳田は、しばらくの間、その箱にしがみついたまま動かなかったらしい。私が持っている柳田芙美緒「静岡連隊写真集」には、その写真が多く含まれているはずだ。
前掲児島書の地図を見ると、この静岡の連隊(歩230)は、途中で第十六軍司令部や仙台第二師団の本隊と別れて、少し東寄り、すなわち首都バンドンの要塞や、カリジャチの飛行場に近い、エレタンという地に向かっている。
柳田によると、約六十隻の護送船団の大半は、主力の警備についてしまい、歩230の擁護は三隻のみ。「俺達は囮か」と兵は怒った。結論は皮肉にも、こちら側は敵潜に追いかけられたりしたが、無事、3月1日に上陸した。
70人程いたらしい従軍記者も、全員、主力に従軍してしまったが、毎日新聞の大西さんという記者が、「一人ぐらい、居ないと」と引っ越してきて、柳田と船内で乾杯している。大西記者は、上陸直後の戦闘で還らぬ人となった。
主力も同じ、1942年3月1日に上陸したが、首都の遠方だから移動に時間がかかる。このため、歩兵第二三○連隊には、主力が到着するまで、攻撃は待てという常識的な命令が届いた。
ところが、歩230は上陸日から早速、敵軍の航空機や戦車の攻撃を受け始めて、死傷者も続発、じっと待っている場合ではない。五万の敵相手に、ニコ大隊(第一と第二)で攻撃を仕掛け、3月9日にカリジャチ飛行場を落し、オランダ軍は全面降伏した。
バンドンの町に日の丸が立ち、かくして歩230は軍令違反の植民地解放軍となった。翌10日は、日露戦争でロシア軍が奉天から潰走した陸軍記念日。今村司令官が断固たる交渉の末、連合軍を無条件降伏させた。
このあと、歩230はバタビアやスマトラ島などに分散配置され、9月までインドネシアに駐留した。しかし、第二師団と第ニ三○連隊には、移動・転戦の命令が下る。行き先はラバウルと告げられた。歩230は、9月23日、ガダルカナルの戦いに参戦すべくスマトラを出発。
(おわり)
奄美諸島のボラ (2018年7月14日撮影)
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