これまで読んできた戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<1> ポートモレスビー・ガ島初期作戦」は、対象の期間が1942年9月までとなっている。川口支隊の総攻撃と撤退までが、「初期作戦」になっている。この戦史叢書の最後のほうに、「大本営の指導」という章がある。
敗報に接し、作戦変更をせざるを得なくなった。9月15日には第十七軍から、また、続いて大本営からガダルカナル島に派遣していた井本参謀からも追加で、川口支隊がマタニカウ川の線まで退いたとの報告が大本営に届いた。
太平洋戦争の開戦以来、大本営の陸軍参謀本部長は、杉山元大将。林銑十郎内閣および次の近衛文麿内閣で陸軍大臣を務めている。その下の作戦担当部署である第一部長は、田中新一中将。この二人は盧溝橋事件に関わった。いずれまた伯父の中国戦史に登場するだろう。
この田中第一部長が、9月17日に幾つかの行動を起こしている。一つは、昭和天皇に拝謁し、「第十七軍方面の今後の作戦指導の方策並びに大本営として採るべき処置」という名の上奏をした。第1条は敗因分析。繰り返しになるので詳細は略。敵の「物的威力予想以上」であり、ついては、「全くの力押しに依るの以外に外なき状況」と判断している。奇襲は諦めている。
続いて第2条に、まず、「第十七軍による作戦指導は目下研究中にて軍の企図の詳細は未詳なるも」と前置きがある。現地で検討中。ちなみに、この時点の第十七軍は大本営直轄。新たなる作戦目的は「一挙に飛行場を奪回するの腹案」、攻撃時期は「十月になると存す」と急いでいる。
このための追加投入は、青葉支隊の残部、第二師団主力、戦車中隊、重砲兵中隊。さらに、まだまだ東ニューギニアは同時並行でラビやモレスビーを攻める予定で、このため、第二師団がガダルカナルに横滑りしたあとの穴を、第三十八師団ほかで埋めると書いてある。
これを受けて、同日、大命が下された。大陸命六百八十号。以下の部隊を現在の指揮官の隷下より除き、第十七軍の戦闘序列に編入するというラバウルの強化策。部隊数は書き切れないほど多いが、戦車、速射砲、重砲、臼砲、高射砲と火力の部隊が多い。ほかに、工兵、通信、野戦病院など。
これらが、(1)関東軍、(2)支那派遣軍、(3)南方軍から引き抜かれる。戦史叢書によると、特に関東軍から南太平洋に戦力を移すのはこれが初めてだそうだ。そして、南方軍からは名古屋の歩兵第三十八師団も送られることになった。
詳細は別途、話題にするが、ガダルカナルの10月総攻撃において東海林隊の名で登場する故郷静岡の第二百三十連隊も、この師団に含まれている。同師団はこの時点で、蘭印(今のインドネシア)の各所に散在していた。これが第二師団の後釜としてラバウルに送られる。なお、正確には第二百三十連隊のうち、第一・第二大隊が静岡、第三大隊は岐阜の編成。
先に大本営に報告を送ったと書いた井本参謀に対し、同じ9月17日に田中第一部長より、返事の電信が飛んだと戦史叢書にある。「全般の状況は決して悲観視するを要せざる」とある。強気。続いて第二師団の投入時期は、十月の上旬または中旬であり、それまで川口支隊はマタニカウの線から後退してはならないと書いてある。これが前回に触れた、岡連隊の厳しい戦いを呼ぶ。
最後に、参謀の人事異動。ずっと前に話題にしたとおり、すでにラバウルの参謀を、これまでの3名から一挙に11名に増員することになっている。まず、現地の松本博参謀は、青葉第三大隊とともにガダルカナルにいるが、第二師団の参謀になる。
その後任者は、大本営研究班長の小沼治夫大佐で、9月15日発令、18日東京出発、20日ラバウル着任。また、これまで大本営から現地に派遣されていた上記の井本参謀が帰国し、後任として辻政信中佐が25日にラバウルに到着した。
辻参謀が持参したのが、「第八次陸海軍中央協定」(増補)で、大本営の陸海軍が9月18日に策定したものだ。内容は上奏と同様、東部ニューギニアの要地攻略と、ソロモン諸島の要地奪回。
9月下旬時点でラバウルの参謀陣は、参謀長が二見少将、次席の高級参謀が松本中佐。この二人が、間もなく交代する。ほかに大本営からの派遣参謀が辻中佐と杉田中佐、これに、8名に増えた第十七軍参謀を加えて、計12名になっている。司令官は引き続き百武中将。
二見参謀長はラバウルにて、18日にガダルカナル島から戻った松本参謀を迎え、20日には上記のとおり新任の小沼参謀を迎えた。先に松本参謀からガダルカナルの厳しい実態を聴き、その後で大本営の上奏から、やる気満々の宿題を課せられた小沼参謀と打合せという順番になった。次回は、その件から始めます。
(つづき)
うちから歩いていける距離に立っている「八紘一宇」の石碑。林銑十郎書とある。
(2018年5月12日撮影)
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