1942年の9月中旬は、ガダルカナルの川口支隊と,、東ニューギニアの南海支隊の両作戦が同時期に挫折し、大本営もラバウルもトラックも大きく動転したはずだ。先日はそれを人事という観点から見たし、これからの作戦行動にも、人の動きが表れることだろう。

 

その後、第二師団ほかの陣容が整い、10月の総攻撃が行われるまで、ガダルカナル島の陸軍は、手をこまねいていたわけではない。彼らは陣取りをしている間に、ただ栄養失調や熱病で病死していくばかりだったのではないことを記録に残さずして、先に進むわけにはいかない。

 

 

特に9月下旬の歩兵百二十四連隊(博多)と、10月に入ってからの青葉支隊(仙台)の奮闘は、特筆に値すると思う。米軍が急反撃してきたのだ。これまで日本軍が飛行場を狙って攻めてきたのだが、今度は相手が舞鶴道沿いの防衛軍を潰しにきた。

 

順番に、先ずは9月24日から始まったアメリカの攻勢から始めます。飛行場近辺に閉じこもっていた彼らが、積極的に外に出てきた。この時期の展開は、当たり前だが日本側の諸記録と、アメリカ海兵隊の戦史の記載ぶりが、よく一致している。

 

 

仕掛けてきたのは、第1海兵師団の第7連隊であると米側の説明にある。先般話題にしたジョン・バジロンたちの新鋭部隊で、彼らが9月18日に上陸したため、米海兵隊の戦力は19,200人になった。武器弾薬や糧秣の補給もなされた。それに、そもそも海兵隊は攻撃用の兵種だ。加えて、9月18日の南太平洋に、ハルゼーが着任している。

 

以下は、主に亀井宏「ガダルカナル戦記」から話を拾います。9月23日、川口支隊に二つの情報が届いた。一つは、行方不明だった熊部隊が方向を見失ったまま、まだルンガ川上流にいて、餓死寸前の状態であるという報告が朝5時過ぎにあった。

 

 

ここから博多の岡連隊長による軽快な作戦指導が始まる。これまで舟艇機動では損害も出したし、遅れも出た。総攻撃にはほとんど間に合わなかった。だから部隊も元気なんだろうというのは間違っている。すでに飢餓とマラリア等で死者が出始めている。

 

権限さえあれば攻撃命令は明確に出し得る。適切かどうかはともかくとして。他方で守りは、受け身なのだから、状況判断と柔軟な対処が不可欠で、この点、ナポレオンが西欧の軍事研究者から最も高く評価されているのが、とうとう守勢にまわり、フランスを包囲した連合軍を相手に全国を駆け巡って防衛戦を指揮した期間の采配だという話を、旧聞ではございますが高校生のころ聞いた。

 

 

岡連隊長は、熊大隊の救助のため、第五中隊を派遣した。これからの展開でも明らかだが、兵員の規模の違いはあるものの、川口支隊長の作戦は大隊単位なのだが、岡連隊長は中隊を各方面に派遣している。一般に中隊は揃って集団行動ができる最大の単位。

 

そのあとで23日にもう一つの情報が来た。これが危険物で、岡聯隊の第二・第三大隊が殿(しんがり)を務めていたアウステン山北側から、「敵は陣地前一帯のジャングルを焼き払い、射撃の視界をひろげるとともに、試射を実施し始めた」というものだった。日本軍が手持ちの小道具で一本ずつ切っていった樹木や蔦を、敵は火力で一掃したらしい。

 

 

嫌な予感は当たった。翌23日、機関銃と迫撃砲を担いだ米軍がアウステン山の博多連隊の炊事場を襲い(アメリカの資料によれば、日本軍が注意していたはずの炊事の煙は良く見えたそうだ)、舞鶴道を遮断した。また、敵飛行機が舞い始め、上陸の気配があった。

 

岡連隊長は、熊大隊救出に向かった第五中隊をいったんアウステン山に合流させ、舞鶴道がマタニカウ川を渡る地点にある「一本橋」の左岸側にいた第八中隊を、26日、マタニカウ川の左岸に引き戻した。

 

 

一方、熊大隊は独力で一本橋にたどり着いたはいいが、知らないうちに敵の勢力下になっている場所に入り込んでしまった。岡連隊長は熊大隊とアウステン山の第二大隊を撤退させるべく、支援のため第三大隊の第十二中隊を一本橋方面に派遣した。

 

同中隊は百名ほどの敵と遭遇して、これを追い払い、一本橋の右岸を占領した。これは午前10時ごろから昼にかけての時間帯で、これまで夜襲に拘って来たものの、白兵戦に限れば、お互いの姿が見える昼間のほうが、かえって有利だったかもしれないなあ。

 

 

次は、マタニカウ川の河口近辺。24日、航空機と砲撃の援助を受けつつ、敵軍約三百名がルンガ岬の西側附近への上陸を試みた。これはマタニカウ川左岸に陣取っていた第九中隊が追い返している。米軍もへこたれず、27日の夜明けに河口付近と一本橋近辺に襲来したが、岡聯隊の前線が撃退した。

 

他方で、駆逐艦に支援された大発九隻が、艦砲射撃のあと、クルツ岬のあたりに上陸し、舞鶴道の前後(東側の一本橋方面と、西側の海岸線)を遮断した。その後さらに、第二陣の七百名ほどが上陸してきた。

 

 

クルツ岬には、アウステン山方面から西進した第二大隊主力が集結しつつあった。同大隊長は舟艇機動中に戦死しており、大隊長代理が、まず第八中隊に、この新手の撃退を命じている。第八中隊長はすでに名前だけ出したが、亀井正行中尉。亀井宏さんは、同姓とあって愛着があるのか、この場面の証言を複数集めて収録している。

 

その一人、宮田正夫氏(第八中隊指揮班の上等兵)によると、この命令が届いたときは軍曹たちの「目が血走ったかのように」見えた。本人も恐怖に襲われたと率直に語っている。第八中隊が海岸線に着いたとき、敵軍は七十~八十メートルという目前にいた。相手の攻撃は、自動小銃の一斉射撃、戦闘機の機銃掃射、艦砲射撃と、陸海空の総出演だった。

 

 

先陣を命じられた第三小隊の塩飽少尉も鉄の雨に撃たれ、中隊長に謝りながら死んでいった。「ここでわれわれは、男泣きに泣いたものであった」。そのあとは激戦に次ぐ激戦で、亀井中隊長以下、多数の戦死者を出して、敵をマタニカウ川の右岸に追い払った。

 

これに先立つ16日、大本営の田中新一第一部長は、マタニカウ川の右岸を占領せよという、現地情勢に暗い命令を出しているが、それどころではない。川口支隊長も、全滅の危機をおかしてまで右岸を占めるのは適切でないと判断した。

 

 

彼の手記によれば、舟艇機動への固執と、このマタニカウ川の陣取りの件で、第十七軍から「大層不興を蒙ってしまった」ということだ。その後の上記戦闘結果に関し、前掲亀井書には、亀井さんの解釈として、こうある。

 

以上、マタニカウ河付近の岡部隊がおこなった戦闘の結果は、後方の第十七軍司令部に、小規模ではあるが、一木支隊以下、ガ島に派遣上陸した日本軍がはじめて得た完全勝利というふうにうけとめられた。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

亀さん  (2018年4月29日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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