9月中旬のガダルカナル島における日米両軍の混乱はまだ続く。川口支隊長が敗北を認識し、撤退を決意したのは二回目の夜襲が終わった9月14日の午前11時ごろらしい。五味川純平「ガダルカナル」にも、亀井宏「ガダルカナル戦記」にもそう書いてある。
ただし、それらに電文や命令書のような出典は明示されていない。どうやら、戦史叢書によると戦時中につくられた「大東亜戦史南太平洋作戦」に、そう書いてあるようだ。これについては後述します。明け方には、支隊司令部の伝令が、第一大隊長の戦死を確認している。第二大隊は遅れている。第三大隊長は呼んでも来なかった。
それにしても支隊長の戦後の手記、「川口支隊の死闘」にある「十三日夜の各隊の夜襲は命令どおり決行されたらしい。」という書き方は、あまりにむごい。当夜、状況が分からなかったのは仕方がない。闇夜だし、戦場が分散しているし、無線が機能していない。
しかし、繰り返すがこれは、戦後に書かれたものだ。自分が指揮命令した戦闘の事後調査すらしなかったということだ。当日も状況把握をせぬままに、撤退命令を出したのは明らかだ。青葉大隊はまだ戦場にいる。古今東西、職業軍人の権限は、敵を殺すのではなく(それは権利ではなく、義務の部類に入る)、合法的に部下を死なす点にある。「らしい」は無いだろう。
このとき左翼の舞鶴大隊もまだ進軍中で、同行していた松本博参謀の電文が、ラバウルを困惑させている。第十七軍の松本参謀は、前述のように青葉支隊の歩兵第四連隊第三大隊とともに島の北西部に上陸し、戦場に向かって東進していた。14日午後、海軍守備隊の無線でラバウルに打電した。戦史叢書に引用されている。
概略は、次のとおり。まず現状は現状報告で、川口支隊の主力は飛行場南方のジャングル内にある。岡部隊(聯隊司令部や第二大隊)も、佐々木大隊(上記青葉支隊の第三大隊)も、交戦後に南方のジャングル内。海軍陸戦隊は所在不明。
次に今後の計画だが、川口支隊の攻撃開始はジャングルの行軍が遅れたため、12日が13日に、そして13日が14日20時に延期されたとある。つまり、これから攻撃開始としか読めない。現実は違った。最後に、「本夜艦砲射撃アリヤ」と海軍の協同も期待している様子の質問がある。これを受けて、ラバウルでは陸軍が「いよいよ今晩」と成功を祈った。
他方で海軍は、偵察機が敵機しか認められずと報告をよこし、敵の通信に乱れもないし、それに松本参謀自身が、まだ川口支隊長とも岡参謀長とも会っていないと上記電文中で述べていることなどから、左翼と中央の連絡が取れているとも思えない。
さらに二日間も音信不通とあっては、「不成功に終わったのであろう」(宇垣「戦争録」)と厳しい見立てであった。だが行動作戦の協定があり、海軍は14日の夜、出動せざるを得ない。
川口手記によれば、とっくに9月13日分の食料まで食い尽くしており、しかも、支隊は2割の損害を出しているから、この時点での撤退の判断は、やむを得ないと思う。それにしても、仙台第四聯隊の主力は、この14日にショートランドを出航し、15日夜にガダルカナル島西端のカミンボに上陸しているのだから、お互い相手が何をしているかも知らないまま、物事が動いている。
支隊長は、14日午前11時ごろに、戦線離脱の命令を各隊に出した。前掲亀井書に引用されている。この中で、まず支隊の大部分は、大川(ルンガ川)の左岸地区、つまり飛行場とは反対側に集結し、後図を策せんとすという基本方針が出ている。
次に、「護衛中隊」は大川左岸地区に沿い、密林内に進路を啓開すべしという命令がある。いきなり出てきた感じの護衛中隊とは、後の諸記述からして、西側の左翼隊のうち第二大隊第八中隊が中心であるらしい。中隊長の名は亀井さん、小隊長に塩飽さんという由緒ある名がある。お二人とも、このあとのマタニカウの激戦で還らぬ人となった。
しかし、14日の命令にあった緊急避難通路は、ろくに道具もないのに、よく次の15日には開通させたものだ。敷設工事の案内役を担ったのは、総攻撃前に支隊長命令で岡連隊長に会いに出かけた中山博二氏である。今度は逆方向に、またジャングル探検をやり抜いている。
撤退は楽ではなかった。連日の戦闘直後、食糧もなく、怪我人はテントを担架がわりにして、みんなで運んだ。亀井書によれば、右翼の熊大隊や砲兵隊は道に迷い、出向かえに行くことになった。後述するが、それも上手くいかなかった。
全軍の集結には約三週間を要し、「全員栄養失調となり死亡者続出」となった。この部隊の9月15日以降における動きを見る前に、第二次ソロモン海戦以降における海軍の動向を見ます。けっこう話題が多い。
(おわり)
有明月 (2018年5月19日)
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