川口支隊による攻撃開始の日時決定は、勝負の分かれ目となったと思うので、過去の記載と重複するところもありますが、それも含めて確認します。支隊の派遣時点では、基本的には敵が強化されないうちに、早く攻めた方が良いという方針であったとの理解で宜しいかと思う。時間との戦いでもありました。
この方針について、川口支隊の一部を、舟艇機動で上陸させるという変則的な部分を入れ込んだ計画にしたため、また、舟艇が米軍の空襲で被害に遭ったため、上陸と集結が遅れるという混乱が出た。8月31日に駆逐艦で上陸した主力も、翌朝の空襲で通信機を破壊され、新聞記者から借りた。
その9月1日に川口支隊長は、部隊の編成に係る支隊命令を出した。この時点では、また舟艇機動の動向が分からず、攻撃日程には含まれていないようだ。ちなみに、今回の資料は戦史叢書と、川口支隊長が戦後に出した手記(以下、「川口手記」)。後者について、私の資料は共著の「実録太平洋戦争 2」(中央公論社)に収録されている、川口清健著「川口支隊の死闘」。前者は昭和44年、後者は昭和35年の発刊。
「川口手記」によると、9月6日に支隊長ほか主力はテテレに進み、翌7日に攻撃計画を示達した際、支隊長は「敵陣地突入は月明の夜を避けるために、またジャングル通過の困難を予想して、九月十三日と予定し、命令を下達した」とある。
「戦史叢書」には命令文の現物が載っており、「十三日十二時までに攻撃準備を完了し、十六時攻撃開始、十七時一斉に夜襲を行い、翌十四日払暁までに全地を蹂躙す」という方針だった。
ところが、既述のとおり、大本営から第十七軍経由で、米軍新戦力がハワイから移動し、5日にフィジーに着いたとの報告があり、併せて、「なるべく速やかに当面の敵を攻撃すべし」という命令と、「何日繰上げ実施し得るや」という質問および回答依頼があった。後者の字面は命令ではない。9月8日のことである。
「川口手記」には、「この軍の電報には、一日繰上げ十二日夜、夜襲をするという返事をせざるを得なかったが、これがいけなかったのである。夜襲失敗直接の原因となったのだ。」とある。
その後の経過をざっと記せば、前回のとおり背後のタイボ岬に敵軍が上陸したため、出発を半日ほど早めたが、磁針偏差で方向を間違え、地図もあてにならず、全体に行軍は遅れた。
手記によると支隊長は、一番遠くまで進まなければならない第一大隊の国生大隊長に、だいぶ遅れているようだが間に合いそうかと訊いたそうだ。「まあ、やってみましょう」という返事が来た。
第一大隊長とは、「自分はこれはもう戦死覚悟だ」と部下に語っていたと部下が証言している国生少佐である。彼の隊は間に合ったが、むしろ他が遅れた。なお、上記の会話は多分、川口支隊長らが迷子になって、偶然9月10日に、第一大隊と密林で出会ったときのものだろう。
川口元支隊長が手記で「夜襲失敗直接の原因」、「運命の日時変更」だったと判断している根拠として挙げているのが、敵の捕虜一名から、「敵は川口支隊の潜航を知らない」、「支隊夜襲の方面たる南方には別に陣地もないことがわかった」ためである。これしか候補が見当たらない。あとは結果論か。「それなのに、無理して進んで失敗した」という趣旨かと思う。
そのあとで、12日の出来事に関し、「敵の寝首を掻くためにせっかく忍び足で来たのに、戸口のところで閾(しきい)にけつまづいて熟睡していた敵の目を覚ましてしまったようなものだ」と書いている。これは全軍が12日も夜襲に参加できなかったことを指す。さて、どうだろう。厳しく言えば、すでに一木支隊・ラバウル航空隊・第八艦隊が、前月に敵の目を覚ましている。
以下は支隊長の責任を云々するのではなく、因果関係を確かめたいのだが、この捕虜は11日に撃墜されてパラシュートで降りてきたパイロットで、全軍の作戦や着陣の現状を知っていたかどうかは不明。ただし、当初のうち米軍も飛行場の南側が手薄だったのは、事実である可能性はあります。つまり、守りを固めた時期が遅め。
なぜなら前回のとおりで、9月7日にタイボ岬に上陸したエドソンのニコ大隊は、川口支隊が反転し攻めてこなかったため、西方に移動して飛行場南側に着陣している。しかし、そのころには、日本軍がジャングルに入っていったことは、沿岸警備隊やマイクロフォンで知られていたと考えた方がよい。後述するが、エドソン隊はムカデ高地に陣取り、パトロールを始めているのだから。
ちなみに、戦史叢書によると、いったん陣容を整えて反転攻撃をすべきか、それとも、このまま飛行場奪回を優先すべきかについて、前回ラバウルでも意見が分かれたと書いたが、前者の反転は二見参謀長が支持した。後者の奪回優先を松本参謀が主張したのだが、その理由の一つに、作戦変更は「川口少将の性格上困難」というのがあり、どうも舟艇機動論争は、やはり十七軍に強引な人という印象を与えたらしい。
「川口手記」は、「本当に惜しいことをした。もし軍の要求がなくて十三日に夜襲していたら、よもやこんな失敗はなかっただろう。」と、かなり強い意見を出している。これについては、まず12日に何があったか、それが13日にどう影響したかを調べないと、何とも言えません。また、いくら調べても、「もしも」の話ですから断言はできない。
ただし、この時点でも言えることは、12日に一部の大隊が夜襲をしたとき、すでに敵の銃砲撃が激しくて殆ど接敵できす、中隊長に複数の戦死者も出しているのだから、敵は準備万端のようであり、では全軍で13日になって攻めたら勝てたはずだとは、そう簡単に判断できまい。
つまり、「12日に襲われるまで、敵は日本軍が南から来ることを知らなかったし、備えもしていなかった」という前提に立たなければ、「川口手記」のような断定はできないと思う。
最後に、戦史叢書は、かなり異例のことかもしれないと感じるのだが、「付録 第六」を設けて、川口支隊・中央隊(主に第一・第三大隊)の9月12日における行動を分析・推察している。その結論は、叢書の本文中にある。「史実の決定のきわめて困難な場面の一つである」。念のため、この「史実の決定」云々は、そもそも9月12日の夜襲に何が起きたのか、資料では断定できないということだ。
(おわり)
サツキ、お気に入り。 (2018年4月10日撮影)
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