一木支隊の資料など読んでいると、ときどき日露戦争の話題が出てくる。共通項は、攻撃方法と組織。攻撃方法というのは、敵の強力な火力に対して、銃剣で立ち向かった点。

 

特に旅順攻囲戦がそうだった。半藤さんはノモンハン事件も同様であり、わずか三年後のガダルカナルで同様のことがを起きたことについて、教訓を得なかったのかと憤慨している。

 

 

組織の共通点について。一木支隊の基幹(主力の部隊)は、旭川第七師団の歩兵二十八連隊。後にガダルカナルに投入される仙台第二師団とともに、日露戦争でも激戦地に送られた。

 

明治の陸軍は、国内の治安対策用に、「鎮台」という名の六つの陸軍部隊の創設から始まった。後年これを近代化するにあたり、「師団」と改称して番号を振った。第一師団が中央の東京、あとは北から順に仙台から熊本まで連番。したがって、仙台が第二師団。

 

 

このあと日露戦争までに師団を二つ増設している。旭川の第七と、弘前の第八。日露戦争では、当初この二コ師団を予備隊として、国内にとどめ置いていたが、戦況の激化とともに、追加投入せえざるを得なくなっている。

 

北海道と東北に追設されたのは理由があって、ロシア帝国が北国の日本海側に上陸するのを防ぐためだ。極東ロシアの根拠地ウラジオストクと北日本は、地図で見るとすぐそばです。八甲田山の遭難事件も、真冬にロシアが攻めてくるという想定の下で、雪の進軍を訓練している最中に起きてしまった。

 

 

先に中国大陸に渡った弘前の第八師団は、黒溝台の会戦で、寒さに握り飯が凍り付いて食えないという状況下で奮闘し、劣勢だった日本軍を、というより日本を救った。仙台の第二師団は、緒戦の遼陽から決戦の奉天まで中央を担当し、夜襲戦を得意とした。日本軍が夜襲が好きだというのは、日露戦争のころから世界各国の軍隊に知られていだはずだ。

 

最後に戦場へ向かった旭川の第七師団は、乃木希典司令官の第三軍に編入され、悪戦苦闘中の旅順総攻撃に参加した。しかも、この戦闘の天王山となる二〇三高地の担当になった。数日の間に、一万五千いた師団兵が、千人になってしまう。

 

 

二〇三高地は、日露が奪ったり奪われたりの乱戦となるが、最初にこの高地の頂上を奪った村上隊と香月隊のうち、村上隊が旭川歩兵第28連隊の所属。旅順は1904年の大晦日に日本軍が攻勢し、翌元日にロシア要塞が降伏した。

 

この第28連隊は、1939年のノモンハン事件でも最前線に置かれた。半藤一利「ノモンハン」には、「葦塚部隊」の名で出てくる。伊藤桂一の小説「静かなノモンハン」の主人公「私」は、この第28連隊に召集された歩兵で、1942年の一木支隊の先輩にあたる。

 

ときどき、一木支隊の兵は戦闘経験がなかったと書かれているのは、いったんノモンハンで壊滅しているからだ。ガダルカナル戦では、大半はそのあと再編された新兵だから、疲れは無く、怖いもの知らずだったろう。

 

 

以下は偶然の一致だが、ごく大雑把にいうと、旅順攻囲戦は、1904年の8月に第一回総攻撃、9月に第二回総攻撃の前段、一旦停止があって10月に後段、11月に第三回総攻撃。

 

ガダルカナルの陸戦は、1942年の8月に一木支隊、9月に川口支隊、10月に第二師団、11月に第三十八師団。いずれも日本は万余の戦死者を出した。

 

ガダルカナル島からの撤退が決まったのも大晦日の御前会議だった。戦場には、暮れ正月もない。幸い平和のまま終わりそうな2017年。よいお年をお迎えください。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

仙台第二師団ほか、大東亜戦争戦没者慰霊碑。

2011年3月11日、津波はこの塚を乗り越えていった。

(2017年11月13日、宮城県名取市にて撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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