歩兵第230連隊のことは、前にも何度か触れました。私はこれからガダルカナルのことを書こうとしていますが、伯父の戦場と直接関係があったかどうかは、よくわかりません。

 

しかし、話題にせずに通り過ぎる訳にもいきません。第230連隊は、故郷静岡の連隊です。繰り返すと、静岡の連隊には知る限りにおいて、まず日露戦争のころからあった第34連隊が、橘中佐で有名です。

 

この連隊の兵営は、かつての駿府城、今の駿府公園にありました。同地に歩兵34連隊の碑が立っています。戦後の一時期、その兵営を私の出身校が校舎に使っていたそうです。

 

 

 

その留守番部隊を増員して、太平洋戦争の当初に増設されたのが第230連隊です。インドネシアまで進軍したところまで書きました。

 

さらに、その留守部隊を再増員して創られたのが第118連隊です。伯父は、上記の第34連隊に応召して中国大陸に出征し、最後の第118連隊で再出征してマリアナで戦死しました。

 

 

これも既述のことですが、親戚や祖父の仕事仲間の数名が徴兵され(母親の記憶では、全部で十名ぐらい)、生還したのは一人だけです。

 

このうち、私が所属の部隊を知っているのは、戸籍の繋がりで調べ得た伯父だけで、他の男たちは、どこでどう戦死したのかさえ知りません。

 

 

戸籍も違うし、母より年上の親戚は居ませんから、もう調べようがないと思っています(そもそも、氏名を知らない)。陸軍なら上記の三連隊のうち、いずれかだったでしょう。第230連隊かもしれないのです。これがガダルカナルを看過する訳にはいかない理由です。

 

五味川純平、豊田稔、保坂正康、伊藤正徳、半藤利一ら、ガダルカナルからの生還者を実際に取材し、それを基に戦史や小説を書いた人たちは、彼らの話を聞いて心底、激怒しているのが読むと分かる。

 

 

伊藤正徳さんは、「帝国陸軍の墓標」と呼びました。保坂正康さんは、「昭和史のかたち」で、「非人間的空間」と書いている。次回はその保坂さんの本を参照します。

 

なお、ガダルカナルを最初に話題にしたのは、第230連隊に従軍してインドネシアに行ったカメラマン、柳田芙美緒さんの「静岡連隊物語」でした。

 

 

私は先日、この柳田さんの遺品をお守りしている方(たぶんご遺族)と電話でお話しする機会を得ました。お付き合いくださり、本当にありがとうございます。

 

その柳田さんを「戦友カメラマン」と称した保坂さんは、写真集を見て、「量と言い広がりと言い、昭和史の記録としてこれほどの写真を見たことがない」と、静岡新聞社の取材に応じて語っています。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

静岡の護国神社にて (2017年9月20日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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