ここ暫く、1944年2月の話を続けています。理由を改めて述べると、中部太平洋方面の戦局が大きく動いていることと、それが我が家の事情に直接関わっていたからです。

 

うちの家庭事情とは、この年の4月に祖父が養女を迎え、続いて一番弟子を婿養子にとって結婚させ(これがブログ・タイトルの伯父)、まもなく応召。

 

5月に伯父の連隊は関東からマリアナに向けて出発し、6月にテニアン到着、7月にアメリカが上陸、8月に占領、9月に伯父が戦死(日付は書類上)と、わずか半年の間に、こういう展開になりました。

 

 

2月10日にトラックから退避した連合艦隊の司令部は、15日に横須賀に着き、軍部に報告・提案をしています。今のところトラックは無事だという段階です。

 

それによると(以下も防衛庁「戦史叢書」による)、中部太平洋は東から順に、次のような分析・主張がなされています。まず、(1)マーシャルは戦略的には戦力を喪失。

 

次に、(2)「マリヤナ」と「カロリン」(トラックを含む)は、航空作戦を主体として、絶対確保。つまり、マーシャルとトラックの間に絶対国防圏の明確な線引きをする。そして、(3)パラオを太平洋方面の根拠地として、そこに決戦力の大半を置く。

 

 

翌2月16日、陸海軍は今後の作戦大綱をつくり、上奏しました。これは前回までに概要を触れています。第29師団のマリアナ派遣や、パラオ・グアム等の軍備強化。ところが、もう次の2月17日、トラック諸島に大空襲があった。

 

「戦史叢書」はこう告げています。「トラック空襲とその損害の報告は、陸海軍中央部に異常な衝撃を与えた」。

 

現地からの通信だけではなく、先述のように陸海の参謀次長らがトラックから逃げ戻り、2月20日に東京で「サイパンはほとんど無防備状態」、「マリアナ四島に最低二個師団が必要」と報告している。

 

2月19日から20日にかけて、陸海軍は戦略の練り直しを迫られます。陸軍の資料である「戦史叢書」は、このとき陸軍はトラックの強化は、マリアナが手遅れになる可能性があるため、「陸軍としては、トラックよりもマリアナ、パラオの防備強化を第一にすべきである」という意見でした。

 

これに対して、海軍側はもっと前線が東側・敵側であるべきという考えを示し、すなわち、トラックを喪うと「一気に戦局は比島に移る」、「損害が三倍になる」と食い違い、そう主張する根拠が書かれていませんが、トラックの確保を強調したとあります。

 

このころ、陸軍軍務局の佐藤賢了少将は、「マリアナ、カロリン諸島を放棄し、比島で最終的な決戦を行う」という方針を主張していたとありますから、すでに軍部内では、マーシャル、トラック、マリアナ、パラオの各諸島を諦めるという意見も出て来たということです。

 

酷い話ですが、諦めるなら諦めるで、早々に撤退してフィリピンに戦力を集中させたほうが良策なのではないかと、戦後の素人は考える訳です。結論はご存じのとおりで、無数の人柱が立てられた。

 

 

しかし、事態は上のほうから急転直下の動きがあり、2月20日に東条英機陸軍大臣が、参謀総長を兼任すべしという騒動が始まった。結論は早くも翌21日に出て、陸海とも大臣と統帥部のトップを同一人が兼ねることになった。

 

すなわち、陸軍は東条英機が陸相と参謀総長を兼務、海軍は島田繁太郎が海相と軍令総長の兼任になりました。これには反対意見も多かったようです。

 

外交や予算の組織運営を担当する軍政と、作戦の立案・命令を行う軍令(今でいうと制服組か)の両者を一人が兼ねるというのは、お金の問題一つとっても、歯止めが効きますまい。あえて営利企業に例えれば、財務部長兼営業部長みたいなものですか。

 

 

「戦史叢書」は陸軍大臣としか書いていませんが、東条英機は真珠湾攻撃の約2か月前から、すでにずっと総理大臣です。内閣では海軍大臣の「上司」でもあります。

 

すでに、大政翼賛会ができ上がっており、総裁は総理大臣です。この時点で、軍部も行政府も立法府も、少なくとも形式的には、ただ一人の男が責任者となった。

 

参謀長としての東条は、陸軍の方針として、そのままマリアナ強化を進めることとし、第29師団に加えて、もう一師団の派遣を内定し、中国戦線からの転用・増派を検討し始めたらしい。

 

その候補の一つに、伯父が徴兵されて所属することになる第四十三師団(名古屋)がありました。これに加えて、「第三十一軍」を新設することになります。これはまた、いずれ。

 

 

東京裁判の概要を読むと、東条英機の罪状は主として1941年の対アメリカ戦を始めた点にあります。いわば首相としての戦争開始責任。

 

しかし、私の関心は今そこになく、このマリアナ強化を謳った総責任者が、このわずか数か月後の7月半ばに総辞職してしまうという信じがたい事態にあります。

 

どうやら職責の放棄というより、辞めさせられたというほうが実態に近いらしい。そうなると、これ以降も含めた戦争の全責任が東条一人にあるとは申しません。

 

 

しかし実際問題として、彼がいきなり「降りた」とき、すなわち1944年7月半ばの段階で、サイパンは陥落していましたが、すぐ近くのテニアンとグアムは、まだアメリカ軍の上陸前で、日米ともに同じ作戦の継続中です。

 

海軍も第一航空艦隊は壊滅して南雲長官がサイパンで自決、頼みの綱の連合艦隊も、ついにマリアナの救助には来なかった。

 

 

私も理屈では、戦争においては局地的に、味方を見殺しにしないといけない局面があることは知っています。

 

でも、これは主力を守り、その後に挽回するための已むを得ざる措置で、だから浅井に裏切られた信長が逃げても、信玄に負けた家康が逃げても、部下は離れなかったのでしょう。

 

 

マリアナは「肉を切らせて骨を断つ」という戦術の結果、滅びたのではなく、マーシャルもトラックも、パラオもフィリピンも硫黄島もそうですが、ただ単に放置され、逃げたり捕まったりするなとだけ言われ、補給も無しで残された。

 

それでも頑張った現場の将兵のため、当人たちだけではなく、民間人も、アメリカ兵も、現地の人も大勢死んだ。そして、その何倍もの遺族がいる。

 

ここ何年かで、天皇皇后両陛下が、戦没慰霊に出向かれた先は、サイパン、パラオ、フィリピン。日本の軍人が、おおぜい戦死したというだけの場所ではありません。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

花の島テニアン

(2017年1月21日、長男撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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