緊張と恐怖に満たされた部屋の中、沈黙が続く。


「・・・・シ、・・・シュウ・・・ジ・・・ニ・・サ・・・。」


どこからか微かだが人の声のような音が聞こえた。


「ニイ・・・サ・・・ン・・・。」




修二が『兄さん』と呼ばれるのは、3年ぶりのことだった。3年前まで、修二には弟がいた。


『修三!今日は絶対勝てよ!』

『兄さんと当たるまでは負けないさ!兄さんは、そっか、シードだから試合は明日の午後だっけ?』

『おう、お前が今日勝ち残れば、当たるのは準決勝だな。ちゃんと予備のラケットも持ったか?』

『うん。』

『んじゃ、もう一本、俺のも今日は持ってけ。去年、地区優勝したときのだ。』

『え!?ありがとう!絶対今日は勝つよ!』

『幸運のラケットだから、俺と当たるときは返せよな!』

『あははは、やなこった~。時間時間、いってきま~す!』


弟はそれきり、帰らぬ人となった。ビルの工事現場から、鉄骨が落ち、地面で跳ねて修三に直撃したのだという。

即死だった。




(修三!?修三なのか!?)


どこからとも無く聞こえる声に、修二は心の中で叫ぶように問いかける。


「ボク・・・ダ・・ヨ。コン・・ナス・・・ガ・・タ・・デゴメ・・・ン。モ・・ウ、・・・イカナ・・クチャ・・。」


修二は、姿こそ違えども、その虫が修三だと悟った。


(修三!!ベッドの下にいるのは、お前なのか!?修三!修三!)


つかの間、虫がガチャガチャとベッドの下から這い出る音を修二は感じ、窓からそそくさと出て行く影が見えた。


「しゅーーーーーぞーーーーー!!!!」


修二の声が響き渡った。夢だったのだろうか、修二の体が開放され、勢い良く状態を起こすといつもと何ら変わらないものに戻っていた。部屋の明かりを急いでつけた修二は、部屋の机の中から懐中電灯を取り出すと、床に這い蹲り、ベッドの下を覗き込んだ。


当然のことながら、そこには何もいなかったが、便箋が一通置かれていた。


(手紙・・・?)


ベッドの下に手を伸ばして便箋を取った修二は、開けて中の紙を取り出した。


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 兄さんへ


 どうしても伝えたいことがあったんだ。訳あって、醜い姿でしか会いに

 これなかったけど、こんな方法しかなかった。怖がらせちゃっただろう

 けど、許してね。


 いづれ会えたとき、生きられなかった分、そっちの話がたくさん聞きたい

 から、兄さんは精一杯生きてね。

 

 長生きしてね、兄さん。


 兄さん、今までありがとう。あの時の約束、守れなくてごめんなさい。


 修三


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修二は、生きる意味をもうひとつ、弟から教わったような気がした。

(か、体が動かない・・・。)


眠りに入って1時間、午前2時のことだった。

修二はどうやら『金縛り』に襲われたようだった。


(最近、仕事ハードだからな・・・。疲れてんだな、俺。でも、今日はなんか変な気分だ・・・。)


金縛りにかかった経験はこれが初めてではない。ただ、今回のものは過去襲われた金縛りとは幾分異なるもののようだった。


(なんか、ドキドキする・・・。なんだろうこの気分。これは・・・たぶん怖さ?)


『胸騒ぎ』に似た感覚。修二は唯一動く眼球を動かし、周りを警戒する。


(ん?ポスターが違う・・・。窓の大きさも違う・・・。ここは・・・俺の部屋じゃない!寝る前はこんなんじゃなかった。これは、夢なのか?)


夢と思えば安堵。現実と思えば恐怖。修二は不安に駆られていた。


(な、なんだあれは?虫?)


修二が見たものは、月の光に照らされて窓からシルエットを現した得体の知れないもの。窓の外で直径30センチメートルくらいの何かがプカプカ空中に浮かんでいる、かと思うと、次の瞬間、丸まっていたのか、大きなムカデのような形になり、それは縦横無尽に外を飛び回っている。


『カチッ』


窓の鍵が独りでに外れた。そして、虫を部屋に誘き寄せるがごとく、ゆっくりと窓が開いてゆく。


(おい!夢なら覚めてくれ!)


虫と思しきものは、修二の部屋の窓に向かって飛んで来る。


(なんだ・・・。いったい何なんだ・・・?)


飛んできて窓に張り付いた虫は、案の定というべきか、開いた窓からスルスルと修二の部屋に侵入してきたようだ。虫は、床の方へ向かい、修二の死角に入って見えない。


(うぅ・・・。こっちに来ないでくれ・・・。)


フローリングの床を、無数の足がカチャカチャと忙しく叩く嫌な音がベッドの下で鳴り響く。


(動けっ!体よ動けっ!)


修二の願い空しく、体はピクリとも動かせない。


(ん?どうしたんだ・・・?)


虫の足音が止まった。


(床から壁に移動した・・・?いや、まさか、ベッドの上に・・・?)


恐怖に苛まれる修二。突如、嫌な音が掻き消す。


『バチバチバチッ!バチバチバチッ!』


虫の羽音のような音がベッドの下から聞こえる。ベッドの下から出られないのだろうか。もがいているように修二には思えた。


(出てくるな!そうだ、そのまま力尽きて死んでしまえ。)


また、ピタリと音が止む。


(ごめんなさい。次回に続きます)

「ああ、俺たちずっと一緒さ。愛してるよ、直美。」

「私も愛してる。琢也のこと、付き合ってからどんどん好きになってる。」


二人は、九十九里浜で自分の愛を誇示し合う。恋人同士になって3ヶ月。


「初めて二人でデートしたのもここだったよな。覚えてる?」

「もちろん!あの時は、まだ友達同士だったけど、琢也が私のことずっと想ってくれてただなんて、夢にも思わなかったのよ。」


春先のまだ冷たい風が頬を撫でる浜辺で、仲良く体を寄せ、お互いの体温で温まる男女は、専門学校で同じクラスの恋人同士。ファミリーレストランでアルバイトをしていた二人は、同じ専門学校であったことから話が弾み、今に至る。


「やっぱり運命だよな。直美に会えたこと。」

「絶対そうよ。もう生まれたときからずっと決まってたのよ。」


押し引きする波は、二人の沈黙を盛り上げる。波が崩れる音のひとつが、お互いの相手への気持ちをひとつステップアップさせるかのようなリズムを紡ぐ。


「そろそろ車に戻ろう。直美には体を大事にして欲しい。この幸せな時間がずっと続いて欲しいけど。」

「うん・・・、優しくしてくれてありがと。大好き。」



・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・



「結局、合わなかったんだな俺ら。」

「結構前からずっと我慢してたけど、さすがに私、もう付いていけない。」


3年後の春先の九十九里浜、二人はまた波を見つめて会話していた。


「さぶっ!帰るわ。」

「あっそ、もうちょっと引き止めるかなんかするのかと思ってた。」


押し引きする波は、時々お互いの思いやりの無い言葉を掻き消し、せめて和らげようと何度も努力する悲しいリズムを紡いでいた。


「まぁ、最後送ってってやるから乗れよ。」

「ありえない。純君が迎えに来てくれるっぽいから早く帰って。」


幸せを、嘘偽り無く、本当に幸せだったあの時の幸せを思い出して欲しかった。

別れる運命ではなく、出会った運命を大切にして欲しかった。

自分が古から、途方も無く長い時間をかけて育んだ二つの生命の、その出会いを、掛買いの無いものとして、もっと大事に扱ってほしかった。


波は、すすり泣くかのようなリズムを紡いでいた。



・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「そっか、じゃあな。」