金崎は、十年前のことを思い出していた。


当時勤めていた会社は、麹町のある一角に建つ7階建てのビルの4階に本社を構えており、大きな会社ではなかったが、活気ある良い会社だった。まだ勤めて3年目だった彼は、雨の日以外は毎日、昼休みになると同僚の誘いをそれとなく断り、独りでコンビニのサンドイッチと野菜ジュースを買っては、隣町との境目にある広い公園まで歩き、その片隅にあるベンチで昼食を済ませていた。暗い奴だと思われるだろうが、実は普段は明るくよくしゃべる人間である。しかし、昼食の時は、仕事の頭を一旦休めるためだろうか、独りで昼食を採ることが習慣付いていた。


そんなある日、2つのサンドイッチを頬張り、野菜ジュースで押し込みながら、ゴミ箱に包み紙を捨てようと金崎が席を立つと、横並びの隣のベンチに茶色い猫が、それはもう気持ちよさそうな顔で初夏の日差しを浴びていた。

金崎は手を庇に、空を見上げた。


『・・・・・・そうだな。今日はいい天気だ』


無類の猫好きだった金崎は、この辺りにいる猫は全て把握していた。この猫は、金崎の会社とこの公園の間にある十字路付近でよく見かける猫だったが、ここで日向ぼっこをしている姿は初めて見る。


『当然知ってるよな。こんなに気持ちいいところだもんな』


もう少しそこで猫の転寝を見ていきたかったところだったが、昼食がてら銀行にも寄りたかったので、未練を残しつつ公園を後にした。


会社に戻った金崎は、午後の仕事に取り掛かって間もなく、目の疲れからだろうか、頭に重い感じを受け、痛みを感じた。


『ここ最近、やっぱりちょっと疲れ溜まっちゃってるな・・・・・・。先週は土日も出勤だったし、今日は部長に頼んで早退するか。』


「部長、先程から少し体調が悪いので、今日は申し訳ないんですが上がらせて頂けないでしょうか?」


部長の佐藤も、金崎の最近の仕事にはオーバーヒート気味な印象を受けていたので、快く了解をした。


「いいよいいよ、無理すんな。最近しっかり休めてないだろ?先週は土日も出たんだから明日も休んだらどうだ?明日はもう金曜だし。今週の仕事は大体もう済んでるからいいぞ。な、ちょっとゆっくり休め」


そういえばゴールデンウィークすらまともに休暇を取れずにいたことを思い出した金崎は、数秒考えた後、佐藤の言葉に甘えることにした。


「ありがとうございます。来週からは本調子で仕事するよう体調整えますので」


佐藤は心配そうに頷いた。


「仕事は効率いい時にやったほうがずっといい。大事にな」


皆が業務を黙々とこなしている中、帰り支度をするのに少し申し訳なさを感じながら、金崎は会社を後にし、ビルの外に出る。まだ太陽が高い中、金崎はなんだか開放感と会社を半分サボったスリルと言うか、それに似たちょっとした罪悪感が混ざった妙な感覚を抱きながら駅に向かった。


駅へ続く道を歩いていると、後ろから視線を感じた金崎は、ちらりと、極力自然ななりで後方を窺った。するとそこに居たのは、昼休みに会った茶色い猫だった。金崎はその場で振り向くと、背中をちょっと撫でてやろうと茶色い猫に近付いてしゃがんで話しかけた。


「さっきも会ったな」


茶色い猫は何の警戒も示すことなくそこに座り込み、金崎の掌を受け入れた。


「なんだ、お前も俺のことやっぱり知ってんだな。腹でも減ってんのか?」


金崎が冗談を言うように話しかけると、猫は「にゃー」と鳴いた。


「あはは、なんか頭痛が治っちゃったじゃないか。お前は俺をサボりにしたいんだろ?」


仕事での緊張の糸が、猫に触れることで切れてしまったのか、はたまたストレスが癒されたのか、金崎の頭痛はふと軽くなった。


しばらく撫でていると猫はすくっと立ち上がり、また「にゃー」と鳴き、駅とは逆の方向に歩き出した。金崎はにこりと笑みを浮かべ立ち上がって駅の方に歩き出そうとした。


「にゃー」


さっきまで、逆の方向に行こうとしていた猫が、また金崎の下に戻ってきていた。と思うとまた、駅とは逆方向に歩き出し、数メートル先でまた「にゃー」と鳴いた。


「ん?なんだ?ついて来いってことか?」


(続く~ 続く~ 続いてしまう~)

「ああ、昔からの夢だったからな。黙っててわりいな、もう手続き済んでるんだわ。」

貴司は不機嫌そうに由美子の質問に答えた。

「何でそんなことそうやって自分だけで決めてんのよ!何!?何なの!?どういうことよ!ちゃんと説明してよ!」

由美子は今年で25歳。普段は冷静で、仕事もプライベートもきちんとこなす賢い女性で、あまりこのような光景はここ数年見られなかった。しかし、その由美子が、今は、貴司のシャツの襟を千切れんばかりに両手で握り締め、血相を変えて激怒している。

二人が付き合ったのは四年前、当初は喧嘩の多かった二人だが、幾多の壁を乗り越え、信頼関係を築いてきた。喧嘩の原因は、圧倒的に貴司の行動によるものが多く、というべきか、そもそも人間というものは、例えば、だらしがないとか、意気地がないとか、道徳的な人間像、言い換えれば由美子に貴司が口うるさく指摘を受ける『正論』というものにどうしてもそぐわない行動をしてしまうものであり、まだお互いの理解がある程度達していなかった頃は、巷でよくある喧嘩の原因をネタに口論を繰り返していたものだった。人生の先輩方がよく言う『“信頼”という“タテモノ”を組み立てる大切な“ザイリョウ”にあたる“喧嘩”』だが、貴司と由美子の“タテモノ”が着々と築かれていったのは、健気にその“ザイリョウ”を、事が終えた後はいつもお互い大切にしてきた賜物だった。しかしながら、その“タテモノ”は、どちらかが『完成』の看板を挙げなければ完成しないもので、由美子はてっきり、貴司に『大事な話がある』と呼び出された時、区切りが付く一大イベントの告白の事だと思っていた。

「俺、3ヶ月間アメリカ行って来るわ。」

「は?何で?」

「ん?ああ、観光ってやつ?来週の月曜から行ってくる。」

「ちょ、ちょっと何言ってるの!?来週って、明後日じゃない!本気!?会社は!?」

「ああ、会社な・・・。辞めたんだわ昨日。ほら、ストレスも限界にきてたからさ。」

「え!?ちょ、ちょ、ちょっと待って。最初からちゃんと説明して。どうしたの?何があったの?」

「うん、今度な。長旅だから準備とか色々しなきゃよ。そんでさ、本当に申し訳ないんだけど、別れてくれ。まぁ、どうせこのアメリカ行きもこうやって反対されると思ってたし、ちょっと疲れちゃってさ。まぁ、わかってやっておくれやす。」

「そこまでして・・・会社とか私との付き合いとかやめてまで行きたいわけ!?」

何の前触れもなかった。同棲している貴司がそんな計画を密かに進めていたとに全く気づくことなく、普通に生活していた。『アメリカに行くことが夢』ということは付き合う前に、唯一度だけ聞いた記憶があるだけで、今になって、それも勝手極まりないこのような態度で打ち明けられ、由美子は、怒りで我を忘れた。

「馬鹿!何なのよ・・・。もう・・・何だっていうのよ・・・。」

顔をぐしゃぐしゃにして泣いている由美子が立ち上がり、家を飛び出そうとした時、貴司は由美子の腕を掴んだ。

「由美子、今までありがとな。俺に振られたからって変な気起こすんじゃねーぞ?」

由美子は怒りに震え、泣きながら叫んだ。

「ふざけんなっ!こんな人だと思わなかった!あんたみたいな奴に振られたからって死ぬわけないじゃん!こっちから願い下げよ!」

貴司は、ふっと笑みを浮かべ、手を離すと同時に貴司は精一杯心を込めて由美子に言葉を添えた。

「だよな。俺の知ってる通り、お前はほんとに強い奴だ。絶対どんなことがあっても幸せ掴めよ!じゃあな!」


4ヵ月後、貴司が帰国して1ヶ月、貴司の両親は言葉にならない想いを、必死に、何度も何度も、飲み込むように胸に押し込み、目前にある色を失った笑顔の貴司の写真も見えないほどの涙に変えて、貴司の終わることない長旅を見送った。
現代の医学の進歩は、余命宣告の精度を上げるくらいのものかと逆恨みしたくなるくらい、貴司は4ヶ月でこの世を去った。


「あの時・・・、痛かったんだね。苦しかったんだね。貴司との約束、ちゃんと守るからね。私、強いんだから・・・。あんな別れ方・・・、貴司は私のこと・・・ちゃんとわかってくれてたんだね。私の方こそ本当にありがとう・・・貴司・・・。」

儚けれどその最後の優しき命、由美子の強き命が受け止める。貴司と由美子は“タテモノ”をちゃんと完成させていたようだ。貴司は、プロポーズという看板でその完成を由美子に見せてあげられなかったが。

「欠点・・・ですか?そうですね・・・なんでしょう?改めて考えてみると出てこないもので・・・。」


「はい、あなたがご自分で、“欠点”と思うところを教えてください。」


「変な答えですけど、“楽観的な自分と悲観的な自分の入れ替わりが激しい”ところですかね。」


この問いにどんな意味があるのかは解らなかったが、京子は自分のことを冷静に分析して答えた。

自らを『使者』と語るその男は、そんな京子の答えに質問を繰り返す。


「あなたは何故今、具体的な答えより抽象的な答えを選んだのですか?」


京子はこの質問に対して、自分の心を見つめた答えを否定された感じを受け、ほんの少し苛立ちを感じたが、冷静に答えた。


「具体的に答えられるほど自分の欠点の数は少なくないものだと思いまして、根本的な自分の“欠点”を考えてみるとそれこそが色々な自分の欠点を生み出しているもののように思えたからです。」


男はひとつ深く息をして、困ったような顔をして話した。京子にはわざとらしいと思える態度だったが。


「ふぅ・・・。あなたはまだ私のことを何か変な宗教の人間だと疑っているようですね。」


自分を使者と名乗り、変な質問を繰り返し、わざとらしい素振りを見せる、京子からすればどう見ても“変な宗教の人間”である。


「ええ、思っています。でも、そう思われてもしかたがない言動を繰り返していると思いませんか?ご自分で。」


男はまるでマニュアルに則って答えるかのように話した。


「いえいえ、私は全然そんな風に思われる話をしているつもりはありません。では何故、あなたは私とこうして話をしてくれているのでしょう?怪しいとお感じであれば、今さっきお会いしたばかりなのに、たとえこんなに人がいるファミレスにだって一緒に入らないはずだと思うのですが。」


京子の苛立ちは、先程よりも少し高まり、徐々に対応するのが面倒になり始めてきた。


「さっきすれ違い様、あなたが気になることを口にしたからです。“やっぱりあの緑の玉は7人をひきつけるんですね”って。」


それを聞いて、男はにっこりと笑った。


「そうなんです。私は“緑の玉を持つ者を導く使者”。あなたはそれを大切な人から貰ったんでしょう?私も、たぶんですけど、あなたがそれを大切な方から譲り受けた瞬間に“使者”になったんです。昨日の夕方、・・・5時半くらい、じゃなかったですか?」


京子は気味悪そうな顔をして答えた。


「そうですけど、なんでそんなことご存知なんですか?ひょっとして、影で人のこと覗いたりしているんじゃないですか?」


男は、あわてて否定した。


「いえいえいえ、誤解ですよ。私も昨日のその時間までは、他人にこんなお話をするような人間じゃなかったんです。ごく普通のサラリーマンでした。でも、その時を境に、何て表現すれば良いのか・・・、また変に思われるかもしれませんけど、“使者”っていう言葉と、こういった“義務”みたいな行動に突然逆らえなくなってしまったような感覚になってしまったんです。」


(すみません。次回に続きます。)