「ああ、昔からの夢だったからな。黙っててわりいな、もう手続き済んでるんだわ。」
貴司は不機嫌そうに由美子の質問に答えた。
「何でそんなことそうやって自分だけで決めてんのよ!何!?何なの!?どういうことよ!ちゃんと説明してよ!」
由美子は今年で25歳。普段は冷静で、仕事もプライベートもきちんとこなす賢い女性で、あまりこのような光景はここ数年見られなかった。しかし、その由美子が、今は、貴司のシャツの襟を千切れんばかりに両手で握り締め、血相を変えて激怒している。
二人が付き合ったのは四年前、当初は喧嘩の多かった二人だが、幾多の壁を乗り越え、信頼関係を築いてきた。喧嘩の原因は、圧倒的に貴司の行動によるものが多く、というべきか、そもそも人間というものは、例えば、だらしがないとか、意気地がないとか、道徳的な人間像、言い換えれば由美子に貴司が口うるさく指摘を受ける『正論』というものにどうしてもそぐわない行動をしてしまうものであり、まだお互いの理解がある程度達していなかった頃は、巷でよくある喧嘩の原因をネタに口論を繰り返していたものだった。人生の先輩方がよく言う『“信頼”という“タテモノ”を組み立てる大切な“ザイリョウ”にあたる“喧嘩”』だが、貴司と由美子の“タテモノ”が着々と築かれていったのは、健気にその“ザイリョウ”を、事が終えた後はいつもお互い大切にしてきた賜物だった。しかしながら、その“タテモノ”は、どちらかが『完成』の看板を挙げなければ完成しないもので、由美子はてっきり、貴司に『大事な話がある』と呼び出された時、区切りが付く一大イベントの告白の事だと思っていた。
「俺、3ヶ月間アメリカ行って来るわ。」
「は?何で?」
「ん?ああ、観光ってやつ?来週の月曜から行ってくる。」
「ちょ、ちょっと何言ってるの!?来週って、明後日じゃない!本気!?会社は!?」
「ああ、会社な・・・。辞めたんだわ昨日。ほら、ストレスも限界にきてたからさ。」
「え!?ちょ、ちょ、ちょっと待って。最初からちゃんと説明して。どうしたの?何があったの?」
「うん、今度な。長旅だから準備とか色々しなきゃよ。そんでさ、本当に申し訳ないんだけど、別れてくれ。まぁ、どうせこのアメリカ行きもこうやって反対されると思ってたし、ちょっと疲れちゃってさ。まぁ、わかってやっておくれやす。」
「そこまでして・・・会社とか私との付き合いとかやめてまで行きたいわけ!?」
何の前触れもなかった。同棲している貴司がそんな計画を密かに進めていたとに全く気づくことなく、普通に生活していた。『アメリカに行くことが夢』ということは付き合う前に、唯一度だけ聞いた記憶があるだけで、今になって、それも勝手極まりないこのような態度で打ち明けられ、由美子は、怒りで我を忘れた。
「馬鹿!何なのよ・・・。もう・・・何だっていうのよ・・・。」
顔をぐしゃぐしゃにして泣いている由美子が立ち上がり、家を飛び出そうとした時、貴司は由美子の腕を掴んだ。
「由美子、今までありがとな。俺に振られたからって変な気起こすんじゃねーぞ?」
由美子は怒りに震え、泣きながら叫んだ。
「ふざけんなっ!こんな人だと思わなかった!あんたみたいな奴に振られたからって死ぬわけないじゃん!こっちから願い下げよ!」
貴司は、ふっと笑みを浮かべ、手を離すと同時に貴司は精一杯心を込めて由美子に言葉を添えた。
「だよな。俺の知ってる通り、お前はほんとに強い奴だ。絶対どんなことがあっても幸せ掴めよ!じゃあな!」
4ヵ月後、貴司が帰国して1ヶ月、貴司の両親は言葉にならない想いを、必死に、何度も何度も、飲み込むように胸に押し込み、目前にある色を失った笑顔の貴司の写真も見えないほどの涙に変えて、貴司の終わることない長旅を見送った。
現代の医学の進歩は、余命宣告の精度を上げるくらいのものかと逆恨みしたくなるくらい、貴司は4ヶ月でこの世を去った。
「あの時・・・、痛かったんだね。苦しかったんだね。貴司との約束、ちゃんと守るからね。私、強いんだから・・・。あんな別れ方・・・、貴司は私のこと・・・ちゃんとわかってくれてたんだね。私の方こそ本当にありがとう・・・貴司・・・。」
儚けれどその最後の優しき命、由美子の強き命が受け止める。貴司と由美子は“タテモノ”をちゃんと完成させていたようだ。貴司は、プロポーズという看板でその完成を由美子に見せてあげられなかったが。