2024年5月中旬訪問 山陰の旅 6日目
世界遺産 石見銀山 その2
石見銀山公園から、散策開始して、龍源寺間歩 (入口)までどんどん登って行きます。約2.3キロ、45分の徒歩行程ですが、晴天の暑い日差しの中、ゆっくり、景色と匂いを感じながら1時間くらいかけて登りました。レンタサイクル利用の人もいましたが、徒歩で満喫できました。
石見銀山は、島根県大田市に位置する、かつて日本最大の銀山で、2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」としてユネスコの世界遺産に登録されました。その歴史と特徴は以下の通りです。
歴史
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発見と初期の開発(14世紀〜16世紀初頭): 伝説では1309年(鎌倉時代末期)に大内弘幸によって発見されたとされていますが、本格的な採掘は1500年代に入ってからです。博多の商人、神屋寿禎が海上から光る山を見て採掘を始めたと伝えられています。
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灰吹法の導入と最盛期(16世紀中頃〜17世紀初頭): 1533年に朝鮮半島から「灰吹法」という画期的な銀の精錬技術が導入され、高純度の銀の大量生産が可能になりました。これにより石見銀山の産銀量は飛躍的に増加し、最盛期には世界の産銀量の約3分の1を日本が占め、そのかなりの部分が石見銀山で産出されたと考えられています。
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戦国大名による争奪戦: 産出される銀は莫大な富を生み出したため、戦国時代には大内氏、尼子氏、毛利氏といった有力な戦国大名の間で激しい争奪戦が繰り広げられました。特に毛利元就は石見銀山を巡る戦いを制し、その財源を確保しました。
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江戸幕府の直轄地化と鎖国: 豊臣秀吉の支配を経て、江戸時代になると徳川幕府の直轄地となり、重要な財源となりました。しかし、徳川家が鎖国政策を採用したため、石見銀山と世界経済とのつながりは途絶え、生産量も徐々に減少していきました。
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近代以降の閉山: 幕末には長州藩の支配に移り、明治維新以降は民間運営となります。銀の産出量は減少しましたが、銅なども産出され、明治以降は銅の採掘が主流となりました。しかし、第一次世界大戦後の銅価格の下落や水害などにより、1943年(昭和18年)に閉山に至りました。
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環境への配慮と共存: 石見銀山の最大の特徴は、**「自然環境と共存した産業遺跡」**である点です。銀を精錬するためには大量の薪炭用木材が必要でしたが、石見銀山では山を崩したり森林を伐採したりするのではなく、狭い坑道を掘り進む採掘方法や、消費と同時に計画的な植林も行われていたため、現在も豊かな森林が残されています。この環境に配慮した生産方式が、21世紀に求められる価値として世界遺産登録において高く評価されました。
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「銀の道」を通じた国際交流: 16世紀の大航海時代には、石見銀山で採掘された銀が、主にポルトガル人によって東アジアやヨーロッパへと輸出され、世界の経済・文化交流に大きな影響を与えました。ヨーロッパで作られた世界地図に「銀鉱山」と記されるほど、その存在は国際的に知られていました。
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銀生産の全体像を示す文化的景観: 鉱山遺跡だけでなく、銀の採掘から精錬、輸送、そしてそれに関わる人々の暮らしの痕跡が広範囲にわたって良好な状態で残されている点が特徴です。
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「間歩(まぶ)」と呼ばれる坑道: 大小合わせて700余りもの坑道が確認されており、手掘りのノミの跡などが当時の採掘技術を物語っています。現在、唯一常時公開されている「龍源寺間歩」では、当時の採掘の様子を垣間見ることができます。
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大森の町並み: 銀山を管理する代官所が置かれ、栄えた鉱山町の姿が今も色濃く残っています。
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港と港町: 銀を積み出した鞆ヶ浦や沖泊の港、そして温泉津温泉など、銀の輸送路や関連施設も世界遺産に含まれており、銀生産の全体像を示す文化的景観を形成しています。
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鉱害の少なさ: 他の多くの大規模鉱山とは異なり、石見銀山では大規模な鉱害問題がほとんど発生しなかったことも特筆すべき点です。
散策マップ
道中、案内板
下河原吹屋跡
福神山間歩
佐毘賣山神社、高橋家跡
間歩跡
木枠の自販機
龍源寺間歩入口
入坑券
良源治間歩入坑口
坑内
信長、秀吉、家康の三英傑がこぞって、手に入れた、石見銀山。当時、日本は銀の生産量世界一だったようです。採掘者の苦労と合わせて、歴史の重みに感慨に浸りました。
※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。

















