山陰の旅 2024
山陰の旅 2024 島根県安来市 月山富田城 攻城248 その1 (2024年5月中旬訪問)
百名城No65 70/100
米子城を後にして、海沿いから山間部へ南西に車で、20数キロ、30数分で、月山富田城があり、月山富田城跡無料駐車場に駐車して、攻城開始です。途中安来市の道の駅で、休憩がてら、お土産を物色しました。
アクセス
系譜
城郭案内図
城郭説明
月山富田城は、標高約190mの月山(吐月峰)の山上に本丸を置く典型的な山城です。
南東以外の三方が急峻な斜面となっており、北側を正面として、山麓部から山頂部へ曲輪(くるわ:城や砦の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域)を連ねる連郭式の縄張となっています。
戦国時代の中世においては土を用いた防御機能が多かったのに対し、安土桃山時代以降の近世になると石垣をはじめとする石の城づくりへと変化しました。月山富田城では、これらの異なる時代の城づくり技術が同居しており、遺構を通してその変遷を体感できるのが特徴です。吉川氏や堀尾氏が城主となった時代には、大規模な石垣が築かれました。
月山富田城の主な城主は下記です。
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尼子氏(あまごし): 戦国時代に山陰の覇者と呼ばれた尼子氏の本拠地であり、約170年間にわたって尼子氏六代の盛衰の舞台となりました。特に尼子経久(あまごつねひさ)の時代には最盛期を迎えました。
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毛利氏(もうりし): 尼子氏が毛利氏の攻撃を受けて滅亡した後、毛利氏が手中に収め、山陰地方支配の拠点としました。毛利元秋(もうりもとあき)や毛利元康(もうりもとやす)が城主となっています。
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吉川氏(きっかわし): 毛利氏の一族である吉川広家(きっかわひろいえ)も城主となりました。この頃から石垣などの近世城郭の要素が加わったとされています。
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堀尾氏(ほりおし): 関ヶ原の戦いの後、堀尾吉晴(ほりおよしはる)とその子忠氏(ただうじ)が入城しました。堀尾氏は新たな居城として松江城を築城し、本拠を移すまで月山富田城が中枢として栄えました。
月山富田城の特徴は下記です。
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難攻不落の要塞: 自然の地形を最大限に生かした堅固な造りで、「難攻不落の山城」と称されました。大内・毛利連合軍や毛利軍の侵攻を二度も撃退した実績を持ちます。
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広大な敷地と多数の曲輪: 山全体を活用した城の面積は約70万平方メートルにも及び、多数の曲輪が配置されています。主要な曲輪には、本丸、二の丸、三の丸、山中御殿平(さんちゅうごてんひら)、花の壇、千畳平などがあります。
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実戦的な防御拠点: 敵が攻め込むルートは「菅谷口(すがやぐち)」「御子守口(おこもりぐち)」「塩谷口(しおだにぐち)」の3ヵ所に限られており、急峻な地形を活かして各所に防御拠点が設置されていました。特に「七曲り」と呼ばれる険しい軍用道は難所として知られます。
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歴史的価値と遺構の保存: 昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、2006年には「日本100名城」にも選定されています。現在も石垣や堀切などの遺構が良好に残っており、一部の建物は発掘調査に基づいて復元されています。
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山中鹿介と尼子経久の像: 尼子氏に仕え「七難八苦」を乗り越え尼子氏再興に尽力した山中鹿介(やまなかしかのすけ)や、尼子氏を最盛期に導いた尼子経久の像が城跡周辺に建立されています。
駐車場から、北に向かって、登城路を登って行きます。やがて、右手に千畳平と呼ばれる広大な曲輪がありました。左手に進むと、太鼓壇がありました。さらに、山中鹿介像があり、休憩用東屋がありました。広い曲輪から、天守台が望めました。ここまでは、比較的楽に登れました。
道の駅 あらえっさ
道中
月山富田城跡無料駐車場
千畳平
太鼓壇
太鼓壇から駐車場を望む
山中鹿介像
春の紅葉
東屋
広い曲輪
道中、天守台を望む
次回は山中鹿介御殿跡を紹介しまます。
※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。

















