山陰の旅 2024
鳥取県鳥取市 鳥取城 攻城246 その1 (2024年5月中旬訪問)
百名城No63 69/100
鳥取砂丘から、鳥取城に向かいました。車で数キロ、十数分で到着しました。城郭西側に県立博物館の無料駐車場がありましたが、前日の調査で混雑していたので、近隣の有料立体駐車場に駐車しました。鳥取城の知識と言えば、秀吉が信長の命による中国征伐時、軍師 竹中半兵衛の、「餓え殺し」という残酷な兵糧攻め作戦で落城させたことと、歴史番組で見た球体状の石垣です。どんなお城なんでしょうか。
アクセス
城郭縄張
散策ルート
鳥取城の様式と特徴
鳥取城は、山城と平山城の二つの顔を持つ点が大きな特徴です。久松山山頂に「山上の丸」と呼ばれる山城の構造を持ち、その麓に「山下の丸」と呼ばれる平山城の構造が広がっています。
建築様式・構造の特徴
・中世の山城から近世の平山城への移行過程を示す、歴史的に貴重な遺構が残されており、「城郭
の博物館」と呼ばれています。
・特に見事なのは、姫路藩主池田光政によって整備・拡張された石垣群です。
・全国的にも珍しい、球状の石垣「巻石垣」があります。これは、江戸時代に川の堤防や港の突
堤を築く際に使われた技術を応用したもので、石垣の崩落を防ぐための工夫のようです。
・中ノ御門大手門は、枡形虎口(石垣に囲まれた出入口)を持ち、高麗門を虎口の幅いっぱいに設
け、両端を石垣に寄せ掛けた珍しい構造です。また、門の両脇の土塀を石垣上に配し、門の屋根
と一体化させることで防御を固めています。(今回は改修工事中でした)
・天守は、当初は3層の天守が建てられましたが、関ヶ原の戦い後に池田長吉によって2層に改め
られました。しかし、元禄5年(1692年)に落雷によって焼失し、以降再建されていません。そ
のため、二の丸三階櫓が天守代用とされていました。
・二の丸三階櫓は、層塔型の3層3階建てで、下の階より上の階が一回り小さい構造でした。山陰
地方で初めて導入された層塔型の建物とされています。
・城跡内には、明治時代に鳥取池田家第14代当主池田仲博が宮内省匠頭の片山東熊に依頼して建
てられたフレンチ・ルネッサンス様式の白亜の洋館「仁風閣」があります。こちらは国の重要文
化財に指定されています。
鳥取城の歴史
鳥取城の歴史は古く、戦国時代から江戸時代にかけて、様々な歴史の舞台となりました。
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築城の始まり:天文14年(1545年)頃、因幡守護の山名誠通が、天神山城の出城として久松山山頂部に築城したのが始まりとされています。
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戦国時代の激動:
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永禄7年(1564年)には、家臣の武田高信が鳥取城を拠点に主家山名氏に反逆。
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天正元年(1573年)には、山名豊国が本拠地を天神山城から鳥取城に移し、因幡国の拠点となります。
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「鳥取の飢え殺し」:天正8年(1580年)と天正9年(1581年)の2度にわたり、羽柴(豊臣)秀吉による鳥取城攻めが行われました。特に2度目の攻防では、毛利方の名将・吉川経家が城を守る中、秀吉が徹底した兵糧攻めを行い、「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」として歴史に名を残しました。籠城した城兵や民衆は餓死者の遺体を食らうほどの悲惨な状況となり、最終的に吉川経家が城内の命を救う条件として自刃し、鳥取城は開城しました。
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近世城郭への改修:
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秀吉の城攻め後、宮部継潤が城主となり、石垣や天守を築くなど近世城郭としての整備が進められました。
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関ヶ原の戦い後、池田長吉が城主となり、山上の住居が不便なため、中腹に二の丸を築き、城池を広げ外濠を拡張しました。
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元和3年(1617年)には池田光政が城主となり、さらに大改修を行い、現在の市街地の原型が形成されました。
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寛永9年(1632年)には池田光仲が城主となり、明治維新まで鳥取池田家が城主を務めました。
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明治以降:明治維新後、鳥取城の建造物は全て取り壊されましたが、山上に天守台や石垣、西麓に二の丸・天球丸などの石塁や石垣が残り、国の史跡に指定されています。近年では、中ノ御門表門などが発掘調査に基づき復元され、当時の姿を偲ぶことができます。
さて、攻城開始です。城郭中央に水堀にかかる擬宝珠橋、その先に中ノ御門があり、改修中でした。西側の宝珠橋を渡り、北ノ御門跡を通り歩を進めます。中仕切り門の手前石垣がいいですね。
城郭遠景
擬宝珠橋、中ノ御門
水堀
宝珠橋
北ノ御門跡
仁風閣
中仕切り門、手前の石垣
次回は、中仕切り門をくぐり、二の丸、天球丸へと進みます。
※2024年山陰の旅の旅行行程は、2024年の5月にブログアップしてます。
















