奈良県大和郡山市 大和郡山城 攻城253 (2025年5月中旬訪問)
続百名城No165 50/100
今回は、奈良県大和郡山市にひっそりと、しかし確かな存在感を放つ「大和郡山城」をご紹介します。桜の名所としても知られ、金魚の養殖が盛んな城下町と合わせて、その魅力に迫りましょう!
大和郡山城とは?その歴史と形式
大和郡山城は、奈良盆地の西ノ京丘陵の南端に築かれたお城です。元々は「雁陣之城」とも呼ばれていました。その歴史は古く、築城は天正8年(1580年)、筒井順慶によって始められました。
その後、豊臣秀吉の異父弟である豊臣秀長が城主となると、大和・紀伊・和泉の100万石を支配する拠点として、大規模な拡張工事が行われました。この時に、現在の城郭の基礎がほぼ完成したと言われています。
城の形式としては、丘陵を利用した平山城であり、本丸を中心に曲輪(くるわ)が渦状に配置された輪郭式という縄張り(城の設計)が特徴です。天守は現存していませんが、かつては5重6階または5重5階の望楼型天守が存在したと伝えられています。
歴代城主と大和郡山城の変遷
大和郡山城は、戦国時代から江戸時代にかけて、数々の有力な武将たちが城主を務めてきました。
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筒井順慶(つつい じゅんけい): 築城者であり、大和国を統一した戦国大名。彼の時代に城の基礎が築かれました。
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豊臣秀長(とよとみ ひでなが): 豊臣秀吉の弟。100万石の太守として入城し、大和郡山城を一大拠点として整備しました。彼の時代に城郭は飛躍的に発展し、豪華な城下町も形成されました。
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増田長盛(ました ながもり): 五奉行の一人。秀長亡き後に入城し、外堀の普請など城の整備を進めました。
江戸時代に入ると、大和郡山城は譜代大名の居城となり、以下の氏が城主を務めました。
- 水野氏
- 松平氏
- 本多氏
- そして幕末まで城主を務めた柳澤氏
特に柳澤氏は、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の嫡男・吉里が入封して以来、6代にわたって郡山藩を治め、城下町の発展にも貢献しました。
驚きの特徴!「転用石」と「逆さ地蔵」
大和郡山城の石垣には、訪れる人々を驚かせるユニークな特徴があります。それは、**「転用石(てんようせき)」**の多さです。
奈良盆地は良質な石材が少ない土地だったため、城を築く際に、近隣の寺院から集められた石仏、五輪塔、墓石などが石垣の材料として転用されました。そのため、石垣の中には、歴史ある石仏や、なんと**「逆さ地蔵」**と呼ばれる上下逆さまになった地蔵が埋め込まれている箇所もあるんです!
これは、石材を確保するための苦肉の策であったと同時に、当時の技術や文化を今に伝える貴重な遺構となっています。石垣の一つ一つに、それぞれの物語が隠されているようで、見つけるたびにワクワクしますよ。
大和郡山城には、歴史好きにはたまらない驚きの秘話があります。それは、徳川家康が築いた京都の二条城の天守台の石垣に、大和郡山城の石材が転用された可能性が高いとされていることです。
関ヶ原の戦い後、徳川家康は豊臣氏の勢力を削ぐため、大和郡山城の多くの建築物を伏見城に移築させ、さらに天守は二条城に移されたという説が有力視されています。その後、二条城の天守は淀城へと再利用されたとも伝えられています。
つまり、大和郡山城は、一度は豊臣秀吉の弟が本拠とした雄大な城でありながら、徳川の世に移る中で、その建築物や石材が「解体」され、徳川の象徴である二条城の礎となったという、なんとも数奇な運命をたどったお城なのです。
中仕切り門跡
駐車場になっている麒麟曲輪跡
郡山城情報館がある緑曲輪跡(五拾間馬場)
天守台を望む
堀跡
天守台、転用石(逆さ地蔵)
天守台、礎石跡












