小学校の高学年から高校卒業までの思い出です。
当時生家で曽祖母、祖父母、両親、妹で暮らしていた。ところが小学校を卒業する前に生家から離れた場所に父親が家を建てたのだ。生家には曾祖母、祖父母が残り、我々はその新宅に移った。どういう理由でそんなことになったのか、当時はわからなかった。
我が家は自営業、家族でお店を経営していた。生家が職場だったのだ。常にお店番が必要だったため、家族全員がそろって夕食を食べることはまずなかった。
食事の順番は祖父母が最初だった。6時ごろのんびり食べ始めるのである。当然お腹を減らしている自分は、祖父母と一緒に食べた。両親はその後に祖父母とお店番を交代して食べていたのではないか。
自分は、祖父母にもずいぶん可愛がられ、憎まれ口をたたくことはなかったと思う。(記憶している範囲では)
中学生になると前述のとおり生活の拠点が変わったため、夕食がガラリと変わることになる。お店が閉店するのは午後8時、両親はその後生家から新宅への帰宅となるため、自分もその時間まで夕食を食べることができなくなった。
仕事後の夕食準備は大変なため、母は近く知り合いのオバサンに夕食の支度を頼んでいた。そのオバサンの食事がけっして不味いとは思わなかったが、正直何か違和感があった。朝母が台所にある黒板に希望メニューを書いておくと、オバサンは買い物に行ってくれ、そのメニューを作ってくれていた。洗濯物の取り込みや家のお掃除などもしてくれた優しいオバサンだった。帰宅が遅くなる家族にとってはありがたい存在だったのだろう。
自分は生家にちょこっと顔を出し、先に新宅に帰り、両親の帰りを待っていた。その空白??の時間に勉強するようになった。小学生のころはまったく勉強せず、行動も酷いもので、所謂「問題児」だったと思う。三角形の内角の和が180°ということさえ知らなかった。しかし、結果的にこの空白の時間が自分に学習習慣を身につけさせてくれた。8時過ぎに両親と幼い妹が帰宅し、それから夕食となる。こんな生活が続いた。
しかし、「水曜日」だけは特別な日で、大好きだった。祖父母と一緒に生活しなくなってから、「水曜日」がお店の定休日になったのだ。父はここぞとばかりどこかに遊びに行っていたようだ。母は週にたった一日の休みを家でのんびり過ごすことが多かったようだ。
そして、「水曜日」だけ普段行わない夕食の準備をしてくれた。自分は母の手料理が楽しみで「水曜日」が好きになった。よくイチゴやミカンをいれたフルーツ寒天を作ってくれ、帰宅するとまず冷蔵庫からそれを取り出しいくつも食べた。母は我々の帰宅時間には必ず家にいた。普段自分が夕食を作れないことを申し訳なく思い、腕を振るって準備をし、待っていてくれたのかもしれない。当時はそんな気持などわかっていなかったと思う。
高校卒業と同時にこの「水曜日」は終わるのであるが、今でも「水曜日」は自分にとって心地よい日なのです。
またお墓参りに行かんとな~。

こんな感じだったのですが、もっとシンプルでした。イチゴと缶詰のミカンが入ってました。