はっぴぃ分布仮説 Ver2.1
原理は人類の現時点における世界認識の到達点と考えるものである。仮説は筆者の直観によるものであるが、もしこの仮説が成り立つならば3つの法則が論理的に導出される。仮説を受け入れて、そこから導出される法則に従ってみようかなという人が現れて、他者の幸せを願うひとが増え、世界のはっぴぃ総量が少しだけでも増したら、とてもはっぴぃなことだと思う。
<原理>世界は確率現象から成り立っており、その全事象は確率分布で表される。
<仮説1>生命は動的に変化する固有のはっぴぃ分布をもち、これにより幸せなことが起こる確率が決まる。
<仮説2>心に、よいイメージを抱くと自分のはっぴぃ分布は良化される。逆に、わるいイメージを抱くとはっぴぃ分布は悪化する。
<仮説3>誰でも、心に願うことで他者のはっぴぃ分布に影響を及ぼす力を持っており、その力の大きさはその人が他者から受けている影響力の総和に比例する。
<幸せの法則>
好きな人の幸せを願うと自分も幸せになる。「好き」という気持ちは他のなによりも優先すべき真実である。
好きな人の幸せを願うと、好きな人の幸せなイメージ(=よいイメージ)が心に描かれる。すると仮説2により自分のはっぴぃ分布が良化され、仮説1により自分が幸せになる確率が高まる。また、仮説3により好きな人のはっぴぃ分布がよくなり、かつその人の影響力が増す。すると、(好意をいだく相手からは好意をいだかれる可能性が高いので)まわりまわって、好きな人からの影響力が自分のはっぴぃ分布を良化してくれる確率が高まる。
「好き」という気持ちは真実である。他のなにものにも優る真実である。もし、好きという気持ちと対立をおこしたり、好きという気持ちに起因して葛藤が生じたりしたら、その葛藤の前提となる規範や習慣をこそ疑うべきである。例えば、同時に二人の人を好きになってしまって悩むことは、「ひとりしか好きになってはいけない」という暗黙の規範に縛られて起こる葛藤であるから、その規範の方こそが間違っていることになる。概ね、社会規範というのは多数の利益を実現するために設定されたルールであることが多いので、社会生活を円滑にすすめるためにルールに従うことは大切ではあるが、規範から外れる自分の気持ちを責めたり罪悪感を抱く必要はない。
もしあなたに決まったパートナーがいるなら、パートナーの幸せを願うことは、自分を幸せにする一番の近道である。
<心の自由の法則>
ひとの心をしばることはできないことなので、ひとの心をしばろうとしてはならない。
原理より、ひとの心も確率現象であるから、なにびともそれを拘束することはできない。原理的に不可能なことである。原理的に不可能なことを実現しようとする努力は報われないだけでなく、自分を消耗させ、傷つけることになる。
好きなひとの心を独占したいと思うことを考えてみる。原理的に不可能なことであるから、完全な実現を得られないことで自分自身が傷つき不幸になるばかりでなく、相手の自由を奪おうとすることは好きなひとの幸せを願うことに反することになり、仮説2より自分のはっぴぃ分布を悪化させることになる。
現実の社会生活において、物理的・身体的な自由を奪われることはあるが、自分の心の自由は誰にも奪うことはできないという自信をもって生きたほうがいい。
<スルーの法則>
いやなことはスルーするのがいちばんである。
きらいな人やいやなことはある。でも、それをむやみに攻撃して退治してしまおうだとか、追い出してしまおうとかするよりも、自分が引く、あるいは心の中からその存在を消し去って避ける、つまりスルーするようにしたほうがいい。
戦いや攻撃による相手の不幸な状態をイメージすると、仮説2より自分のはっぴぃ分布が悪化する。悪意をいだけば仮説3により相手の影響力の増強に結びつく。まわりまわって自分のはっぴぃ分布の悪化につながり、自らの不幸を招く結果となる可能性が高いからである。
逆に、自分が他者から憎まれたり妬まれたりしていても、悲観することはない。多くの確率分布は対称性をもっているので、あなたのことをきらいな人が10人いれば好きな人も10人いるからである。また、嫌われることでマイナスの影響力を及ぼされても、そのことで自分自身の影響力は強化されるので、悪いことばかりではないからである。
以上(Ver1.0 2009/11/23, Ver1.3 12/22, Ver1.4 2011/1/4, Ver1.5 1/10, Ver1.6 1/11, Ver1.7 2/11, Ver2.0 5/4, Ver2.1 6/4)
原理は人類の現時点における世界認識の到達点と考えるものである。仮説は筆者の直観によるものであるが、もしこの仮説が成り立つならば3つの法則が論理的に導出される。仮説を受け入れて、そこから導出される法則に従ってみようかなという人が現れて、他者の幸せを願うひとが増え、世界のはっぴぃ総量が少しだけでも増したら、とてもはっぴぃなことだと思う。
<原理>世界は確率現象から成り立っており、その全事象は確率分布で表される。
<仮説1>生命は動的に変化する固有のはっぴぃ分布をもち、これにより幸せなことが起こる確率が決まる。
<仮説2>心に、よいイメージを抱くと自分のはっぴぃ分布は良化される。逆に、わるいイメージを抱くとはっぴぃ分布は悪化する。
<仮説3>誰でも、心に願うことで他者のはっぴぃ分布に影響を及ぼす力を持っており、その力の大きさはその人が他者から受けている影響力の総和に比例する。
<幸せの法則>
好きな人の幸せを願うと自分も幸せになる。「好き」という気持ちは他のなによりも優先すべき真実である。
好きな人の幸せを願うと、好きな人の幸せなイメージ(=よいイメージ)が心に描かれる。すると仮説2により自分のはっぴぃ分布が良化され、仮説1により自分が幸せになる確率が高まる。また、仮説3により好きな人のはっぴぃ分布がよくなり、かつその人の影響力が増す。すると、(好意をいだく相手からは好意をいだかれる可能性が高いので)まわりまわって、好きな人からの影響力が自分のはっぴぃ分布を良化してくれる確率が高まる。
「好き」という気持ちは真実である。他のなにものにも優る真実である。もし、好きという気持ちと対立をおこしたり、好きという気持ちに起因して葛藤が生じたりしたら、その葛藤の前提となる規範や習慣をこそ疑うべきである。例えば、同時に二人の人を好きになってしまって悩むことは、「ひとりしか好きになってはいけない」という暗黙の規範に縛られて起こる葛藤であるから、その規範の方こそが間違っていることになる。概ね、社会規範というのは多数の利益を実現するために設定されたルールであることが多いので、社会生活を円滑にすすめるためにルールに従うことは大切ではあるが、規範から外れる自分の気持ちを責めたり罪悪感を抱く必要はない。
もしあなたに決まったパートナーがいるなら、パートナーの幸せを願うことは、自分を幸せにする一番の近道である。
<心の自由の法則>
ひとの心をしばることはできないことなので、ひとの心をしばろうとしてはならない。
原理より、ひとの心も確率現象であるから、なにびともそれを拘束することはできない。原理的に不可能なことである。原理的に不可能なことを実現しようとする努力は報われないだけでなく、自分を消耗させ、傷つけることになる。
好きなひとの心を独占したいと思うことを考えてみる。原理的に不可能なことであるから、完全な実現を得られないことで自分自身が傷つき不幸になるばかりでなく、相手の自由を奪おうとすることは好きなひとの幸せを願うことに反することになり、仮説2より自分のはっぴぃ分布を悪化させることになる。
現実の社会生活において、物理的・身体的な自由を奪われることはあるが、自分の心の自由は誰にも奪うことはできないという自信をもって生きたほうがいい。
<スルーの法則>
いやなことはスルーするのがいちばんである。
きらいな人やいやなことはある。でも、それをむやみに攻撃して退治してしまおうだとか、追い出してしまおうとかするよりも、自分が引く、あるいは心の中からその存在を消し去って避ける、つまりスルーするようにしたほうがいい。
戦いや攻撃による相手の不幸な状態をイメージすると、仮説2より自分のはっぴぃ分布が悪化する。悪意をいだけば仮説3により相手の影響力の増強に結びつく。まわりまわって自分のはっぴぃ分布の悪化につながり、自らの不幸を招く結果となる可能性が高いからである。
逆に、自分が他者から憎まれたり妬まれたりしていても、悲観することはない。多くの確率分布は対称性をもっているので、あなたのことをきらいな人が10人いれば好きな人も10人いるからである。また、嫌われることでマイナスの影響力を及ぼされても、そのことで自分自身の影響力は強化されるので、悪いことばかりではないからである。
以上(Ver1.0 2009/11/23, Ver1.3 12/22, Ver1.4 2011/1/4, Ver1.5 1/10, Ver1.6 1/11, Ver1.7 2/11, Ver2.0 5/4, Ver2.1 6/4)