先日、葉山を散策したときのこと。

森の中で目をつむり、耳を澄ますとふだん聞こえないような様々な音がきこえてくる。
風の音、鳥の声、川のせせらぎ、遠くの犬の鳴き声、車の音、、、、

聴覚は選択的にはたらくので、都会の日常では生活に必要でない音は、耳に入っていても聞こえない。
ときには自然の中で、こころをひらいて、ふだん聞こえない音を聞くようにするとよい。

聴覚に限らず、感覚器官とはそもそも、制限的にはたらくものだとする学説がある。
イギリスの哲学者C・D・ブロードの『制限バルブ説』である。(茂木健一郎氏の命名)
視覚も聴覚も嗅覚もあらゆる感覚器官というのは、生産的にではなく除去的にはたらく制限バルブのようなものであるとする考え方で、とても魅力的な仮説である。
見えるものも見えないものも、聞こえるものも聞こえないものも、我々が認識できるものより、もっと多くの情報が世界には溢れているのだ。

生命科学者ライアル・ワトソンは「未知の贈りもの」の中でこんなことを述べている。
イカは信じられないくらい精巧な眼球をもっているのに、そこから得られる膨大な視覚情報を処理するのはとても原始的な脳である。
高価な望遠レンズを靴の空き箱にのっけるようなものであるという。
それでは、イカの眼球はなんのために存在するのか?
きっとそれは、もっとおおきなもののために存在するのである。
イカは俊敏に動き回るカメラ台なのである、、、、

ブロードの考え方とワトソンの考えを、心理学者ユングの『集合的無意識』説とあわせて考えると、さらに魅力的な仮説ができあがる。

われわれの脳は、自覚しているよりももっとずっと多くの情報を得ている。そしてそれらは、集合的無意識を通じて共有されている。しかし、個々の生命が生存に必要な情報のみが制限バルブを通過してひとりひとりに与えられている。

われわれには、もっと多くのものが見えているし、聞こえているのだ。

(ここから先は妄想ですが、、、)
幻聴や幻覚などの妄想は、実際に情報として存在しているのかもしれない。他者の感覚器官から得られた情報であり、頭の中で考えられたことなのである。そして、それらは集合的無意識によりつながり、共有されている。
ふだんは制限バルブによって、見えたり聞こえたりすることはないのであるが、何かの拍子にバルブが破損したり、一時的にゆるんでしまうことではいってくると、幻聴や幻覚として知覚されると考えられないだろうか。
そして、普通の人々は一生制限バルブが開くことはないけれども、天才といわれる人々は、創造活動の瞬間にはきっと制限バルブが開くのである。
ピカソの絵をみているとそんな気になる。上下左右現在過去未来あらゆる視点からの画像が統合表現されているからである。きっとピカソは制限バルブの開閉が自在にできる天才だったのだ。