人の言う言葉を、どのように聞くか・・・
感性の問題にもなりますが。
自分は、こうだから、それしかない
となったら、あーそうですか。
ということ、なのですが。
そしてまた、それは「こうです」と
言われたとしても、知識として
覚えておきます、程度のことになる。
明治の文豪さん達・・夏目漱石らが、
今の日本語を構築したらしいですね。
しかし、そこには、日本人にらしい感性が、
含まれている。
夏目は「好きです」と異性に言う代わりに
「月が、綺麗ですね」とか、表現した、とか。
ダイレクトに、言わないで、さりげなく。
それを受け取る女性の感性も、高くなければ
「何いってんのよ。月はいつもと同じ」となる~
ここらが「風流」などを、分けますか。
「いつも見る月と違って、特別に綺麗に見えるのは、
好きな貴女と見ているからです」。
日本男子は、こう、はっきりと言わないもので。
いえないということを、日本女性は知っていた。
そういう関係性の妙は・・・いまは、ないかもね。
想っていることを、ちゃんと言葉にして言ってよ。
言わないと、分からないじゃない?
これがグローバル社会というのもで。
たとえば、私たちは、生まれたときから、
他人の感情や評価・判断を植えつけられます。
「これは、してはいけないこと」
「これは、すべきこと」
「これは綺麗ね」
「これは汚いよ」
小さいころ、犬を叩いて、犬がそれに抵抗しようと
ワイワイやることが、面白い~。としている。
それを見た人が
「そんなことをしたら、かわいそう。やめなさい」
と言われて、・・「叱られたので」
とりあえず従います、ね。
楽しいのに、なぜイケナイと言うのだろうと、
思いつつも「こうすること」と覚えます。
やがて、学校へ行くようになって、、、
同級生にイヤガラセをされたりします。
モノを隠されたり、陰険なことを言われたり・・・
「なんてことを、するんだ」と腹立たしく思う。
そのとき、殴っていた犬の思いと、
自分の思いが、シンクロする、
瞬間がある。としたら。
そのとき「そうなのか」と、思い当たる。
あのときの犬も、こんな気持ちだったのかなっと。
そうなったら、教え込まれたから守る。
ということから、自らが「それはできないこと」となる。
こういうことも、その人の感性を磨く。
ということに、なりますか。