死の数日前に彼はこう述べている。
「過去70年もの間、あの膨大なエネルギー、
膨大な英知がこの身体を使ってきました。
そして今その身体はもう耐えられません。
何がその身体を通り抜けたのかを誰も知りません。
このような別の身体を見つけたり、
または身体の中で作動するその卓絶する
英知を見つけることは、今後百年誰にも
出来ないでしょう。」
『クリシュナムルティ 人と教え』p65
(「クリシュナムルティの生涯」の章) より引用
これは私(マインド)が助手席に座り、操縦席は
「膨大な英知」に、明け渡している状態
の記述なのではなかろうか。
操縦席にいるのが「身体の中で作動するその卓絶する英知」
なのだと。
こうなると、いちいちの事象に対して、
私(マインド)は、無力のまま、見ているしかない。
起きてくること、為していること、
それは自身の経験と呼んでいるものですが、
見ていること以外、何も出来ないのに、
それなのに。私(マインド)は、
自身が操縦席にいる。
と思い込んでいる。
それが私たちの日常にあるもので。
そうなのに、それに気づかないのが、
私たちであって、それに気づくのは
「何がその身体を通り抜けたのか」の記述。
英知が操縦席にいてくれるのだと知ったとき、
私たちは、安心して、その手に自身の人生を任せられる。
つまりは「膨大な英知がこの身体を使ってきた」の記述に、
それは、みてとれる・・・かな~と。
最高で優秀なドライバーに乗せてもらっていることに、
安心しているから「あーのこーのと不満」になることもない。
長く短い人生と言うドライブを、英知に任せて、ワクワク
楽しめばいいのに、時には横からハンドルに手をかけて、
叱られて~
「これは私の人生だから、自分で操縦しなければならないーー」
とごねてみる、みたいな。
社会が作った世界から、自分に主導権を戻し。
戻した主導権を、もともとの持ち主に戻す。
そして・・・
モノゴトの本当の意味は。
本当には、何が起きているのか。
私たちは、終わってから気づく。
私が、何者だったのかは、
終わってから気づく・・のでしょうか。