人のことは、いろいろと思うし、
言うことが出てくるんですね。
まったくもって
「自分のことは、さておき」となって
しまうのが、私達なのですね。
どこまで行っても、相手は、自分の鏡
・・・観ているのは自分なのです。
「相手が、こういうことをしている・
こういう状態だ」と思うそのことは、
自分自身なのね。
相手にカベがあるから
人を受け入れようとしない・・・
と思うようなことがあって
ガードが固いぜ~と感じる。
そんなとき相手に「ガードを下げろ」と
言いたいなら、自分のガードを下げる。
それだけで、ガードの問題は、
解決しちゃうのね。
相手に下げさせたいから、
解決しないんです。
そんな簡単なことなのだけれど、
やってみれば分かるんだけど、しないのね。
もう~あらゆるトコロに、その手
のパラドックスは、あるのね。
しかし、このような構造がなければ、
私たちは、本当の意味で
「自分を見ること」ができない。
ただし、自分を見ていると気づかなければ、
それに、なんの意味がない~となりますが。
それで気が付いたのだけれど~
「自分のドッペルゲンガーを見たら死ぬ」
という話があります。
似ていると思いませんか?
自分で自分を見たら、その瞬間に
「自分は死ぬ(消える)」んです。
・・・自分と思い込んでいた自分が。
「消える」「死ぬ」というのも象徴。
自分に、こだわらない状態ってこと?
昔から、ソレを示唆する言葉が、
本質(意味)を隠して
残されているんじゃないかな。
その意味に気づくと、様々なものが
シンクロしされて顕れる。
いろいろな処にね。
智慧のタネというか。
隠れている。