パラダイムですが、これは、
「極めて個人的に常識として見ている世界」
見えている世界は、人それぞれ千差万別。
しかし。個人的なものだから・・・
で、済ませられないものでも、ある。
私たちは、一人で生きているわけではないからね。
人との関わりの中で、生活がありますから。
誰かのパラダイムと、自分のパラダイムが
ぶつかり合って、どちらも、引けない。
なんてことが、起きる。
そのとき・・・どうするか。
答えを単的に言うと
「事実を知っているか、いないか?」
というトコロに、立つ。
すると、なんとなく、冷静になれる。
そして
「お互いがグッドである」
観点の場に、移動する。
自分だけが・・・
相手だけが・・・
という解釈で、モノ・コトを見ていると
事実は、見えてきませんね。
「お互いがグッドである」ときに
事実に対して、無欲で向き合える。
向き合えるから、事実が見える。
とも、、、言えますか。
単純な構成から言うと
たとえば、満員電車の中で、老人に席を譲った。
このとき、相手から、感謝される必要はないのですね。
「譲ることのできた自分」であることに、
なーんとなく、言葉にならない豊かさを、得る。
これは、相手から拒否されることがあっても
ぜんぜん、関係ないんですね。
「感謝されたい」という要求があったら
目的がソコですから、満たされない可能性もある。
むしろ、拒否されるということで傷つくこともある。
それは全部~自分の持つ「パラダイム」から起きます。
感謝されたいパラダイム。なのか
与えたいパラダイム。なのか
なのですね。
与えたら見返りが欲しいか
ただ与えたいのか。
まっ。みなアタマでは、理解しているのですよね。
見返りなく、与えることが、与えることだ、って。
だけどー知っているのと、出来るのとは違う。
「見返り」というのは、やったことの結果を確認したい。
というトコロからも、出てくる。
与えたものが、良いものだったか、悪いものだったか。
それをね。
どーしてか、確認したいのね。