ちょっと過激なタイトルですが。
それをマジで信じている人もいますね。
誰かには、愛されているんじゃないの?
誰だって、一人や二人。
気心の知れた友達がいるでしょ?
それをマジで信じている人もいますね。
誰かには、愛されているんじゃないの?
誰だって、一人や二人。
気心の知れた友達がいるでしょ?
そうはいっても
気心は知れていても、完全に
相手を信じきれない・・・。
という一抹の不安も在るわけでして。
では、それが思い当たらなければ
家族は、大丈夫でしょ?
と・・・思うのですが。
「誰にも」という人は、家族さえも。
となってしまうようでして。
わたしらは、小さい頃から
「こうだったら、愛してあげる」
メッセージを受け取って生きて来る。
それを真面目に受け取る人は、
その要求に応えようと、自分じゃない
自分を作り上げてしまうのです。ね。
そんなこんなで。。
「要求に沿えない自分は、愛されない」
となってしまうようです。
心の根本にあるのは、家族の対応~
「こうだったら・・・」が、染み付いて
そこで、心のクセが出来てしまう。
誰に対しても
「こうだったら愛される」という自分で
対応してしまう。
たかだかの、どうでもいいような人にさえも。
そこで、心のクセが出来てしまう。
誰に対しても
「こうだったら愛される」という自分で
対応してしまう。
たかだかの、どうでもいいような人にさえも。
しかも。クセになっているから、
そうしていることは、気づけなくなる。
「こうである」自分が、自分だと錯覚。
そのまま行くと
「こうしている」のに、何故、愛されない。
という壁にも、ぶつかります。
ひとりひとり「こうして」の要求が
違ってきますから、合わせられません。
そこで。
うっすら~としたトコロに、
「愛されていない」感が、つきまとう。
世界の中心で
「愛されたいよぅ」と叫ぶ。
(ちょっと古かった)
さて。どうしたらいいか。
もう。言わずとも、分かるでしょ?
もう知っているでしょ。
気付いているけれど、怖い。
そうしていることは、気づけなくなる。
「こうである」自分が、自分だと錯覚。
そのまま行くと
「こうしている」のに、何故、愛されない。
という壁にも、ぶつかります。
ひとりひとり「こうして」の要求が
違ってきますから、合わせられません。
そこで。
うっすら~としたトコロに、
「愛されていない」感が、つきまとう。
世界の中心で
「愛されたいよぅ」と叫ぶ。
(ちょっと古かった)
さて。どうしたらいいか。
もう。言わずとも、分かるでしょ?
もう知っているでしょ。
気付いているけれど、怖い。
クセは、自分の身を守るために
作り上げた防御服・・・だから。
脱ぐに脱げない~
この恐怖が、見えるものを見えなくさせる。
この恐怖が、見えるものを見えなくさせる。
愛は、いつでも、
あなたのそばに居た。と。