比例・反比例 | 喜多川リュウの『Life is Art』〜豪華客船コーディネーター

喜多川リュウの『Life is Art』〜豪華客船コーディネーター

週の半分を東京で、もう半分をで田舎で暮らしながら、
遊び半分、仕事半分に感じたこと、見つけたこと、
経験したことをつづっていきます。
還暦までに「やり残していること」にも挑戦していきます!

わたしが小学生の頃の昭和40年代前半(1965年〜)には、近所でテレビを持っている家はまだそれほど多くなかった。

我が家のある十世帯ほどが集まった細い路地で、最初にテレビを買ったのはウチだった。

おそらく10インチくらいの小さい白黒のものだったろう。

 

夏は夕方になると、隣近所の男連中が入れ替わり立ち替わりやってきては縁側に横坐りになった。

彼らの目的はテレビだった。

母は彼らのためにテレビの向きを変え、ビールやつまみを用意してやった。

 

プロレスや野球中継など、観るものはなんでもよかったのだろう。

彼らには「テレビを観ること(=近代文化に触れること)」自体に意味があり、

父にとっては「テレビを持っていること」を実感できる瞬間だった。

 

高度経済成長期のワクワク感をシェアするというある種の連帯感を味わいながら、

隣近所を含めた「一家団欒」のときを過ごすことができた。

当時テレビは近隣との「コミュニケーション」には絶好のツールだった。

 

 

その路地で最初に電話を引いたのもウチだった。

当時畳屋をしていたので、電話は工事依頼を受けるのにとても役立った。

(むしろそれ以前はどうやって注文をとっていたのだろう?)

 

すぐに電話はひんぱんに鳴るようになった。

畳工事の依頼が増えたからではない。

隣近所のひとがウチの電話を使うようになったからだ。

「いつでもウチのを使ってください」と、いつも鷹揚な父だった。

 

電話がかかってくると、父も母もサンダル履きで「呼び出し」に走り、近所のひともサンダル履きで気軽に借りにきた。

わたしもしばしば「呼び出し」を手伝わされ、大人たちに感謝され、日頃のお礼にと煮物や刺身の差し入れがあった。

 

あれから50年…

 

テレビは一家に2〜3台、電話は個人で1台が当たり前の時代になった。

家族は自分の部屋で別の(あるいは同じ)番組を見、兄弟のチャンネル争いもなくなり、

家庭内での電話の呼び出し回数も減り、夜遅くに女友達の家に電話をかけるときの緊張感も味わうことはなくなった。

 

利便性や効率性に比例して、家の中にモノは溢れ返っていく。

利便性や効率性に反比例して、人と人との接点は格段に減少していく。

 

あの頃を知り、懐かしむ世代もこれからはどんどん少数派になっていくのだろう…。

来年から元号も変わり、ますます「昭和は遠くなりにけり」だ。

 

 

■あの時代に思いを馳せたいときに最適な映画「日本一シリーズ」

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